ちり・もや・かすみ

は〜 来世来世

小説『影裏』と映画『影裏』、相互補完についての考察


映画『影裏』、観てきました。

 

県内に上映館はひとつ、日曜日昼の回、客の入りは疎ら、男性客は片手にも満たない。
予想通りの過疎ぶり。
予告の感じと、原作が芥川賞作品に選ばれたときの大衆の反応、メディアでの番宣の少なさ……などからこの映画は大ヒットには至らないだろうという予感はあったのだが、その通りですねというか。
わかりやすいアイドル映画ではなく、エンタメ性も薄い作品なので、見所を求めた客は多分賛否の「否」を唱えて劇場をあとにしていることでしょう。


個人的には原作を読んで映画化決定の報を受けてめちゃめちゃ楽しみにしていたくらいに好きな小説だったので、良い映画だったと思っている。
まず、小説よりもわかりやすいストーリーになっていた。
しかし、小説内で言語化された主人公の感情が表情ひとつカメラワークひとつに委ねられるとあっては、ただ映画を観ただけの客層には伝わらなかったのだろうな〜というシーンも多くあって、題材が題材なので仕方のないことだけれど勿体ないと思う。
両方見るのが一番いい。という、結局そんな作品になっていた。

片方だけを見てレビューしている人はわりと見掛けたのだけれど、両者を踏まえた観点からこの作品周りを語っている人はいないようだったので、僭越ながら私なりに考えたことを記事に纏めたいと思う。


オタクには「映画の配給・ソニーミュージック、配給協力・アニプレックスだよ」と添えておこう。


以下、ネタバレだらけで書いていくので、ネタバレなしで観ようと考えている人は注意して欲しい。

 

 

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(映画につけられた解説)

第157回芥川賞を受賞した沼田真佑の小説「影裏(えいり)」を、綾野剛松田龍平の共演で映画化したヒューマンミステリー。「るろうに剣心」「3月のライオン」の大友啓史監督がメガホンを取り、自身の出身地である岩手県を舞台に描いた。転勤で岩手に移り住んだ今野は、慣れない土地で出会った同僚の日浅に心を許し、次第に距離を縮めていく。2人で酒を酌み交わし、釣りをし、遅れてやってきたかのような成熟した青春の日々に、今野は心地よさを感じていた。しかし、ある日突然、日浅は何も言わずに会社を辞めてしまう。しばらくして再会を果たした2人だったが、一度開いた距離が再び縮まることはなく、その後は顔をあわせることなく時が流れていく。そしてある時、日浅が行方不明になっていることを知った今野は、日浅を捜すが、その過程で日浅の数々の影の顔、裏の顔を知ってしまう。

 

 

この解説には伏せられているが、「日浅が行方不明になっている」その間接的な原因は2011年3月11日……つまりあの日のことだ。

 

 

 


『影裏』について

『影裏』は沼田真佑による小説で、彼のデビュー作にあたる。デビュー作でいきなり文學界新人賞を受賞するとともに、芥川賞を受賞した。2017年のことだ。

単行本にして94ページ。100ページにも満たない、短い小説である。
以前、小説家の朝井リョウ氏が「違う受け取り方をされたくない」と言っていた。自分の狙い通りの読み方をされたい、だからすごく説明をしてしまう。そう狙って書かれた彼の小説には「正解」が一パターンしか用意されていないと言ってもいいかもしれない。
この言葉を前にすると、『影裏』はほとんど対極にある小説だ。
勿論、この短さ故ということもあるが、主人公が自分の感情を読者に明示せず内に籠らせていることも大きい。
どうとでも読める。
何も読めない人だっているだろう。

 


小説の事情を踏まえて映画を観ると、モノローグ部分で説明できた主人公・今野の心の動きが小説に増して削られたぶん、行動面やシーンをいくらか盛り込むことで感情の肉付けがなされているように取れた。シーンが増えたことで、小説よりも幾分かわかりやすさを備えた作品になっている。
重要なのは、肉付けされた行動が原作世界に生きる今野や日浅を損なう種類のものではなく、彼らの人間性に基づいた行動様式にもなっていたこと。

原作小説できちんと「言葉」にして説明されなかった箇所が、行動によって補足される。決して「言動」によらないのがポイント。余分な台詞はほとんど追加されておらず、あくまでも原作を大事にした上で映像化していることがよくわかる。
ヒューマンミステリとは違うな?って気はする。他にどう言っていいものかはわかりかねます。

 


映画では日浅が今野に見せる顔が若干変わってしまった気がするが、本質的には日浅ってこんな人間だよねと言える妖しい雰囲気はちゃんと残されていて良かったと思う。(具体的に言うと、今野が日浅を見ておそらくキュートと感じていただろうポイントが、多少減じていた。映画の日浅は「何か大きなものの崩壊に脆く感動しやすくできていた」わけではない。)
キャストを見たとき、日浅が綾野剛で今野が松田龍平ではどうかな?と思ったものだが、浅はかな考えだったかもしれない。というくらいにはこの今野にはこの日浅だろうという像がしっくり嵌っていた。


この小説は結末や日浅の人間性含めて読者に委ねている部分があるものの、いくつかの要素は真実としてちゃんと用意されている。如何せん、それらが読み解きづらい構図になっていることが話をややこしくする。短い話だし、どのシーンにも事件らしい事件はなく、難解な要素を含んでいないのに不思議だね。

 

 

それではいくつか、原作と映画で補完しあっている部分について考えてみる。

 


1.主人公の性的嗜好

と書くのは些か腑に落ちない。が、一番説明に手間取らないのでこう表現させていただく。

主人公・今野は男性である。どちらかというと大人しく、平凡な男で、転勤になった岩手で一人暮らしをする。どうにも田舎に馴染んでいけない不器用な男で、人付き合いにもなかなか積極的になれなかった。というよりも、いかにもそういうことは不得手といった様子。映画の、特に序盤では、こうした不器用さに鈍臭さがプラスされている。
そんな彼に近付いてきたのが同じ職場の同僚、日浅である。人当たりがよく、器用で、自由奔放な男だ。髪は自分で切るので主に伸ばしっぱなし、このご時世に携帯すら持たない。その日浅の方から距離を詰められることで、二人は友情を深めていく。釣りをし、酒を飲んで、夜を過ごす。意気投合して、という表現は合わない。“日浅が今野に”近付いたのだ。

 


小説序盤、今野が日浅を見るときの「目線」に注目したい。景色の情報については細やかに美しく思い描くのに対し、日浅については少し頼りない。彼の容姿やスタイルについてひどくぼんやりしていて、実態が掴みにくい。
ただ、彼の行動をどう解釈して自分がどう受け止めているのか、それについては雄弁だ。
日浅の「巨大なものの崩壊に陶酔しがちな傾向」が「ある種壮大なものに限られる点」を「小気味がよ」いと感じるのもそう。退職を選んだ日浅の元いた部署の悪待遇を思い、「いつまでも甘んじている日浅じゃないと、そう考えていたわけではない」が、「日浅はどうも、時代を間違えて生まれてきたように見える」という感想もそう。
今野には日浅が何か大きく、特別な人間のように見えていたのだということが窺える。
そのくらい心酔していたわけなので、小説内では今野の色メガネを通じた日浅が風景と同系列に切り取られている。
小説内中盤まで、彼の感情の正体は謎めいて見えるものの、察しの悪い読者にもわかりやすいエピソードがここにきてようやく挿し込まれる。


今野の元へ連絡を入れてくる相手がいた。「副島和哉」という。仙台に出張に来ているというその人物と今野は、原作内の時間軸では会うことがない。代わりに、電話で言葉を交わす。彼の声はすっかり女性のものになっていた。
女へと転換手術を終えた彼女(彼)と話し終え、今野は「妹の結婚相手との顔合わせ」というイベントに思いを馳せながら副島と結婚していた可能性について考える。副島とは二年付き合っていた。
この今野の元恋人であった、元男の副島という存在が、物語における今野の色メガネの正体に直接的な気付きを与える。
今野は重い友情を同性の日浅に対して向けていたというのみではない。それに留まらず、岩手に来るより前から今野は同性に恋愛感情を抱くタイプの人間だった。(そして副島はおそらく、本質的に自身を女性だと認識しており、転換手術を受けるに至った。その性的解釈の齟齬が二人の別れの原因と推測される)


ここからが映画の話。
わざと一人に絞ったスポットを当てることは可能だが、それでも観客は今野の色メガネを装着していない。風景と日浅は等しくこちらの目に飛び込んでくる。日浅が何故今野にとって特別に映るのか、今野から日浅への「重たい友情」の根本はどこに繋がっているのか。
日浅のいる日常の輝きを恋慕という観点から観客に認めさせる、というのはこの映画における課題だったと思う。小説と同様の道筋から今野の想いを知るのは映像としては不可能だ。

だから文章の行間を読む、以上のわかりやすい展開が必要となり、原作にはなかったあのキスシーンに繋がったはずだ。

 


二人で今野の部屋で飲み、うたた寝をしていた夜。ソファから起き出した日浅は、床で仰向けに寝ていた今野の方に近寄る。その首元に手を伸ばす。気配で目を覚ました今野相手に、日浅は穏やかな様子で蛇が今野の体に乗っていたことを伝え、「毒性はないと思う」と口にしながら蛇を外へと追い出す。
蛇が体の上から退いてもぼんやりしている今野に、日浅が再度近付く。呆然としていた今野が突然弾かれたように動き出し、日浅にキスをしたのだった。

このとき、今野は決定的なことを何も言わなかった。好意を口にしなかったし、日浅の名前さえ呼ばなかった。日浅もまた、自分に襲いかかる今野を全力で拒んだものの、「やめろ」以上のことは言わない。暴言を吐かないし、今野のことを否定しもしなかった。今野を引き剥がし、彼の中の衝動がおさまったことを確かめた日浅が言ったのは、これだけ。「もう寝るぞ」

翌朝今野の目覚めたとき、日浅は部屋にはいなかった。彼は外(バルコニーか?)に出て煙草を吸い、昨日までとほとんど同じく「お前の川に連れて行け」と釣りの誘いをした。……

 


このシーンは映画内の感情のほつれを観客がはっきりと理解できるように加えられたシーンに違いない。が、言葉にしない今野と問い詰めない日浅の人間性が大事にされたシーンになっていて、決して余計なシーン、ましてやサービスカット的な扱いになっていなかったことは好印象である。

映画を追っていくと、二人の出会い〜初めての飲みの場面に顕著だが、日浅はこちらに遠慮なく距離を詰めてきたと思えば、一歩を埋めようとこちらから踏み込めばさっと躱す、みたいなところがある。
夜中に押しかけてきたのに泊まれば?という言葉にうんと答えない。今野も必要以上に食いさがれない男で、そういう踏めこみきれない今野と踏み込ませない日浅の性格をそのままに注ぎ込んだシーンだった。

ここで私たちは、認識する。今野は日浅を好きであることを、或いは原作以上に正しく認識するのだ。


(もっと片鱗に近いものが画面上にある。映画の今野はやたらと脱ぐ。季節は夏、今野は寝間着として着ているスウェットパンツをはかないで、下着のボクサーパンツで寝ていることが多い。このとき見える脚。スネ毛はきちんと処理されていて、今野の脚は綺麗だ。これを「そういう」視点から見るのは強引すぎるだろうか)

 

 

2.副島の存在

小説では声のみの登場で会うことがなかった元恋人・副島と、映画では今野が再会するシーンがある。まあここは彼女の存在なくしては「今野はただ孤独な夜を過ごした」となってしまうので、どこかで出ていて欲しい人物ではあった。ただし声だけの登場では単に女性との会話となってしまうので、きちんとその姿を見せる。この役は男性俳優が女物の服を纏って演じている。
これが女装でないことは、今野の「手術はいつだったのか」という問いにより補われている。
ご本人も映画の宣伝時、ツイッターで役柄の細かいことに触れていなかったので敢えて俳優名を書くことはしないが、不必要に女を強調せず、自然な発声で演じていたので、とても良かったと思う。
この方、こういう「映画の大事なところに触れるので前番宣をなかなか正しく発信できない役を担当する」みたいなパターンを以前から何度か見かけ、その度に「いい役なのに事前情報を発信しきれず勿体ない」と「そんな役を引き受けてくれていい人」という思いが共存してしまう……。そんな感じなので好感度が高い。

 


3.鈴村さんというおばあちゃん

今野のアパートに住む、口うるさくて繊細、面倒なおばあちゃん。映画で今野の頼りなく不器用な様々を補足するように、彼に対して強気でガミガミ言っていた人だ。
小説では昔教鞭を執っていたことを今でも誇りに思っていて、元教え子の子供が作文コンクールで賞をとったことが新聞に載ると、それをコピーしてアパートの郵便受けに配り回る。「些細なトピックも隣人に触れ回らずにはいられない、たぶん寂しさからくる自尊心の衰え」と、「こうした話題を直接口でつたえる相手を持たない孤独の暮らし」を今野に感じさせる。悪人ではなく、おそらくは正しさの勝る人に違いないのだが、隣人にしておくにはつらいタイプ。
映画では元教員の経歴が消え、足が悪いのをおして住人に口うるさく注意して回る厄介なおばあちゃんになっている。作文は「孫が書いたので読んでください」という名目でポストインされるのだが、孫がいる=家族がいるという図式の中での一人暮らしの老人、という彼女の孤独感がより一層際立ってしまった。
映画のラストで鈴村さんの部屋にハウスクリーニングが入っている。果たして彼女はどうなって、どういう経緯でアパートを出たのか。詳細は不明。家族と暮らすことになったか、老人ホームに入ったか、それとも……。

 


4.今野に見せた日浅の顔

映画の日浅は、光が結構濃い。
小説はかなり短い文量の中で時間経過を表し、多数のエピソードを数行で片付けて彼の影を見せている。よって、主だって語られるのは会社を辞めて営業職に就いた元同僚の日浅なのだ。元同僚になってからの日浅はかなり胡散臭い男で、今野の色メガネをもってしてもカバーしきれないところがあった。
映画も基本的に言ってること、やってることは同じだが、同僚として過ごす日浅が長く画面にいて、裏の顔を映すまでに結構間があった。「今野の少し遅れてやってきた青春」としての日浅が丁寧に描かれ、それは光と言って差し支えない存在だった。

会社を辞めて今野の前から姿を消し、そして再びその前に現れた日浅。彼は冠婚葬祭の互助会関係の営業マンになっていた。誇れるものなど何もないと言っていた日浅が、自慢げに新人にして売り上げトップをとったことなどを語る。……後に彼が現れたのは夜中で、いつかの夜と同じようにその手には日本酒。以前と変わらず「やろうぜ」と言う日浅を、今野は喜びと共に招き入れる。
日浅から今の仕事の話を聞いたり、互いの釣りの調子などを語らいつつ飲み交わす。

冠婚葬祭事業について彼から聞いて、実際のところ今野はどう思ったのか。
その夜、勢いで遂に日浅にキスをしてしまう、今野は。
当の日浅から「もうお前に頼るしかないんだ」と言われ、男女が微笑み合う写真に彩られた結婚式のプラン表を前に、「話を聞いてて、実際いいなって思ってたんだよ」と空々しい言葉を吐きながら一口分の契約書に印鑑をついた今野は。一体、どんな気持ちだったのだろう。

自分に迫った友人を日浅は責めたり咎めたりせず、殊更親切にするでもなかった。急に態度を変えなかった。再会してから距離があいてしまったけれどそれでも今野にとって無二の人で、「日浅にとっての今野もきっと特別な友人であっただろう」ということだけは今野も信じたかったのだ。
だが、日浅は今野に対して誠実ではなかった、と思う。

 


影裏で一番の山場となるシーンが、あの夜釣りだ。
日浅から、(彼にとっては契約の礼という名目で)夜釣りに誘われた今野。それはもう浮ついた気持ちで、細々とした色々なものを用意して指定の場所へとやってくる。身一つで来いと言われたにも関わらず、今野が用意したのはアウトドア用のテーブルにイス。チタンプレート、GSIのパーコレーター。バーナーにランプ。いかにも形から入ったような、素人が背伸びしたようなラインナップ。テーブルにはピクルスを用意し、ニットキャップを被った今野は、少しはしゃいだ様子で日浅の到着を待つ。
しかし、日浅の反応はつれない。確かに、そのあと彼らがした釣りの内容や釣った魚を串に刺して焚き火で直に焼くあの粗野な感じと、いかにも実用的でないメルヘンチックなキャンピンググッズは不釣り合いだった。「なんとも言えないけれど収まりが悪く落ち着かない感じ」を日浅が苛立ちとして露わにしてしまうのは、やるせなくても仕方がないところだった。彼らは噛み合わない。日浅は自然の中に育った東北男児なのである。

その様子をまず「ママゴトかよ」と非難する。ブランケットとダウンベストに「そんなに寒くもねえけど」と口を出す。駐車位置にイチャモンをつける。等々。(ここの帽子について、原作では「ニットキャップはかぶると男は哺乳瓶みたいでぶざまになる」という比喩だったのが、哺乳瓶ではなく「ゴム」になってて、すごい直接的になったなあ、とちょっと感心した)
この冷水を浴びせられたような感じは小説ならではだと思っていて、喧嘩や仲違いまではいかなくとも雰囲気が悪くなった二人のやりとりがこう、ウッとくる。途中で日浅の現職場での顧客だというおじさんが加わり、今野の浮ついた気分は益々下降する。勝手に期待して、日浅から思うような反応を得られず、また二人きりですらなくなったのだから彼の心からすれば自然な流れだ。
ところで、映画では後日譚として、この日日浅に馬鹿にされた女々しいキャンプ的な釣りを、今野が新しくできた恋人と純粋に楽しんでいる様子が出てくる。恋人がうたた寝をする横で今野は竿をふるい、画面の左端にはあの日と同じようなテーブルが置かれている。なんか、あれはあれでウッときた。

 


5.日浅と西山さん

映画で言うと、最初に今野の車の前に飛び出して今野から日浅のことを聞き出そうとする女性、それが西山だ。
今野・日浅と同じ職場で、日浅がいたのと同じ現場(倉庫)で働く中年女性。今野は彼女から、「日浅は死んだかも」という可能性を提示されるのだ。
この女性がまた胡散臭い人物なのだが、急に仕事を辞めた日浅とはそれからも会っていたようである。彼に言われるまま、自分と夫の分を一口ずつ契約し、互助会に入った。上の娘は高校生だったが条件付きで入会した。あと一口と日浅にねだられたが、下の娘はまだ中学生なので断った。断ると今度は「お金を貸して欲しい」と持ちかけられる。日浅を「極悪人」とするには大した金額と言えない、30万円。原作では西山は、5万円余分に用立てたことになっている。(今野は「おそらくは一種の親心から」という虚しい推察をしている。親心なんてものから所帯を持つ女が赤の他人の男に対し、5万円用立てたりするものか。)
西山が日浅を探す理由のひとつはここにあった。震災後、状況が変わったので「あの30万円をすぐに返してくれると助かる」と言う。
日浅を探す西山は、彼の職場にも電話した。まだ十代にも思えるたどたどしい娘が電話に出て、「日浅なら行方不明です」と答えたという。匿っていると思った西山が彼女を問い詰めていると、上役に代わって日浅との関係を尋ねられた。西山は咄嗟に答えた。「彼女です」

映画では、そこまで勢いよく喋っていた西山が失速、口篭るシーンだ。今野はそこから「何かを」読み取るのだが、やはり追及しない。

小説での今野は映画よりは深くその言葉の真意について思いを巡らせたが、やはり敢えて本質を避けるように語る。
西山が日浅の行方を執拗に追いたがる理由は、お金だけによらない。彼女は、職場の電話口の「女」に対して匿っているなと思った。一回り近く年齢差があるだろうかという年齢差の中年女性が、「彼女です」なんて言い訳をして三十代半ばの男の職場に電話したこと。
日浅は「もう今野しか頼れない」と思って今野の元に現れたのではない。彼は、そうやって契約をとっていた。
日浅は、西山とおそらく(確実に)不倫関係にあった。

この部分は映画だけだと見落としがちな日浅の「裏」なのだが、影の一番濃い部分のひとつとして重要な文脈を含んでいると思う。会話だけを見ると原文とさしたる違いがないことから、やはりこのあたりの関係は改変なくそのままにされていると考えられる。


西山から三口絞り、更に金まで引き出した日浅。一方、今野からは一口ぶんの契約しかとれなかった。
これは震災後、日浅の行方がわからなくなってから知れたことだが、近くに家族はいなく、自分以外に友人のない今野を相手に、日浅は入会した今野の名義を、勝手に高額プランへ変更させてしまう。これは説明もなく、営業もなく、日浅自身によって勝手に変えられてしまった契約だった。

そもそも、彼のやっていた「営業」とはなんだったのか。
実は今野は、「互助会に入ってくれないか」と言った日浅に、こんな内容のことを思っている。「きっと日浅は、十日前自分のところに来たときは結局言い出せず手ぶらで帰り、今ようやく契約の件を持ちかけることができたのだろう」と。だが、今野がそう受け止めることこそ、日浅のシナリオではなかったか?
だって、今野が契約の判をついて日浅を送り出したあと、今野はアパートの階段に見ているのだ。日浅が自分を待っていた場所に、煙草の吸殻が落ちているのを。契約をとろうと奔走するでもなく、ただじっと今野の帰りだけを待っていただろう日浅のことを察しているのだ。

彼の裏切りの程度だとか悪人具合が問題なのではない。日浅の些細な言動が凡そ嘘まみれなことが、この作品においては最大のキモなのだ。
今野の想いはこの際脇に置いておいても、彼が心を許し、一番の友と思っていた男は、全くのデタラメから出来上がった人間だった。

 

 

6.日浅家

日浅は震災後、三ヶ月経っても捜索願が出されなかった。痺れを切らした今野は、彼の父親が暮らす実家へと赴く。そこで彼の父から、息子とはもう縁を切ったから、行方不明の届を出すこともしないと言われ、その具体的な理由を聞く。

日浅は高校まで地元に暮らし、大学進学を機に一度上京して、そしてまた地元に戻っている。東北訛りが和らいだのはそのせいだと言う。これは一部が嘘で、父親はある人物からの文書により真実を知った。四年間東京に出ていたのは本当だが、大学になど通っておらず、四年後父親に見せた卒業証書は日浅により偽装されたものだったのだ。(文書によるタレコミをした相手は、その偽装の手伝いをした者だった)
学生課によると、そんな学生は過去に存在しなかったと言われた。(ちなみに小説では、大学合格の通知自体は本物だったとある。彼が四年間どうしていたかは置いておくとして、上京するまでの経緯そのものは真実だった)
しかしながら、四年だ。他人から「たかだか経歴詐称でしょう」などとと言われても、妻に先立たれ、男手ひとつで二人の息子を育てた父親は淡々と「四年もの間仕送りをしていたこと」「半年に一度は学費だと言って80万円を支払っていたこと」を話し、立派な横領だと言った。
四年も気付かなかったのか?という今野の問いに、「信じとったんです」と過去形で話す日浅父。
その信頼を裏切り、誰に対しても嘘偽りを貫いた日浅に、「あのばか者のためにどなたの手も、わたしは煩わせる気は起こらんですよ」「ほかの真っ当な生活者の方々と、あの男とを、同じ行方不明者のリストにのぼせるなんて、わたしは烏滸がましいことだと思いますがね」というのが父の意見だった。
また、父は「息子は生きていますよ」という見解も述べる。更に「この災害の混乱に乗じて火事場泥棒が横行しているとニュースで報じられているが、奴は本来あちら側(泥棒側)の人間だ」と分析する。

確かに日浅は、リセットのときを迫られていた。
空白の四年がある。何をしていたかはわからない。これは映画内ではなくなったやりとりであるが、彼の性質として父は「決まって一人の友人としか付き合わない」と語る。

「いつも同じ子供とばかりいるなと思っていると、ある朝全然別な子供が玄関に現れ、しばらくはその子とでなければ登校しない。じきにまた別な子が来たかと思うと、今度はその子にくっついている。どれも長続きせんのですがね。」

彼はつまり、そういう生き方をする人物だった。成長し、「大学へ行く」と言って、実際は通いもしない大学に行くために東京に出た。四年経って東北に戻り、製薬会社の倉庫課に就く。それも辞めると、冠婚葬祭の互助会営業へ。彼の人生は偽りと、再生が共にあった。少しずつリセット、修復しながら生きていた。
改めて、全部をチャラにする絶好の機会が訪れた。それがこの大災害であったのかもしれない。
あくまでも可能性なのだ。だが、日浅の父親はそう確信している。そして未だに日浅について「確信」なんて言葉を寄せられるくらいには、この父は息子を愛していたのではないかと思う。
原作では、波に身を任せる日浅の妄想を捨てられずにいる今野も、日浅のある種のたくましさ、生命力を認めている。火事場泥棒たちの卑怯な図太さと日浅を同列に並べ、「日浅がそういう輩の同胞であるのを頼もしく」感じてさえいる。

結局、日浅が姿を消し、屍すら見つからない以上は、決定的なことなど誰にもわからないのだ。わからないから汲み取らねばならず、『影裏』は今野が日浅の周辺からなんとか汲み取ろうとしていく物語なのである。
日浅の行方は知れない。でも、今野は生きている。生きているから、前に進まねばならない。
原作では、ここまでで、これより先のことは語られず終わる。


映画では日浅父との対峙シーンの他に、兄と会話するシーン、互助会から身に覚えのないプラン変更の通知が来るシーン、そして新たに恋人を得た今野が釣りに行くシーンが挿入され、それをクライマックスとしている。
正直、下手にモノローグの入れようが無い映像作品で、原作通り父親との会話をクライマックスに置くと、今野が日浅父から得た、日浅の生命力への期待と希望、図太いまでのたくましさを信用することにしたポジティブ寄りの感情が伝わりづらく、苦しいままに終わる後味の悪い映画になった気がする。だから前進する今野の未来を描くことにした判断自体は、映像媒体においてきっと仕方のないことであったのだろう。原作通りの難しさだ。

だが、兄と会話するシーンは個人的にあまり意味を見い出せなかった。結果的には兄も弟についてはわからないということだったし、同じことを繰り返しているだけでは。
柘榴のモチーフを取り入れたのもオリジナル要素なのだが、このオリジナル展開の会話内で一応柘榴の木についても話の回収をしている。……してはいるものの、わざわざ兄を挟んで解読させるほどの何がここに込められていたのか?ここだけは謎が残った。

 

 

7.火と柘榴と影と

映画内で使われて、印象的だったセリフを幾つか。


「わからないままの方がいいこともある」

今野と日浅が最初に行った釣り。何故か岩手の川釣りでニジマスが釣れた。なんでこんなところで?と疑問がる二人、今野は「調べとく」と言うが、日浅はわからないままの方がいいこともあると言う。日浅という人物そのものの示唆と言えなくもない。
ラストシーンで、釣りをする今野の竿に、再度ニジマスがヒットする。

 


「ガラスみたいな火だな」
「薪でいちばん優秀なのは流木なんだぜ」

 

流木に燃焼の速度で違いが出る。よく乾燥しているかどうかが問題なのだが、火をつけてみるまでは誰にもわからない。じわじわと育てることが大事、前戯が大事なんだ、と日浅は言った。
人の感情もそうなのだろうか。彼は周囲の人々の感情をじわじわ育てていたのだろうか。
今野が日浅に声を掛けたのは、日浅が禁煙の札を無視して煙草を吸っていた現場だった。二度目に話したとき、今野は日浅から吸いかけの煙草を「吸っていいよ」という言葉と共に受け取っている。煙草も火だ。
火は影裏の日浅を語る上で、重要なワードである。原作の今野が日浅の魅力を語る上で用いていた例がそうだった。
日浅の言っていた火のエピソードで興味深かったものは他にもある。山火事の話だ。「火の元はなんだったと思う?線香だって。あんな小さな火が山を燃やしてしまうんだ」

 

 

「人の味だからな。……柘榴の実は人の肉と同じ味がするんだって。昔、近所のばあちゃんが言ってたよ。」

 

柘榴の実を持って現れた日浅。中の粒を一つ一つ食べようとする今野の実を取り上げ、「ガブッといくんだよ」と言って手本に一口齧って、彼に返す。
印象的な場面だが、ここだけは隠喩が汲み取れていない。
日浅はわりと人を踏み台に(語弊)するところがあるけれども、人を殺すような悪人ではないではないか?人の肉という語をわざわざ出してきたのがよくわからない。

 

 

「死んだ木に苔がついてその上にまた新しい芽が出る。その繰り返しだ。屍の上に立ってんだ、俺たち。」

 

日浅がいなくなってなお、今野の胸の内でリフレインする言葉。
生きているので、乗り越えなくてはいけない。
日浅は、他人の感情や立場、資産などを巧妙に奪い、屍の上に立って生きていた。
今度は今野が彼の屍の上に立ち生きるのか……?

 


‪「知った気になるなよ‬」‪「お前は光の部分しか見とらん‬。人を見るときはな、まず影の一番濃い部分を見るんじゃ‬」

日浅の言葉だ。これはあまりにわかりやすい暗喩である。彼が話したかったのは今野と日浅という人間と、二人の関係についてだ。
今野は日浅の光の部分しか見ていなかった。
日浅はどうだろう。今野の一番の薄暗い部分を把握した上で、彼を意のままに操ったのか。

 

 

 

 


いい映画だった。岩手の風景も綺麗で、今野が日浅と過ごす日々はまさしく青春で、キラキラと輝いていた。
それだけに日浅が画面から消えた、行方不明以後の世界は失速したところがあり、映画の緩急って難しいんだなと思ってしまった。

 


前置きで触れたように、おそらくヒットは難しい映画だということは承知している。
でもいい映画だと思っているし、個人的に思い入れのある作品だったので、「観たけどわからなかった!」と言っている人たちに、解ってくれ〜〜という念を送ることだけは許して欲しい。
いや、別にわからなくてもいい、「わからないから嫌い」にならないで欲しい、と願っている。


まあ私の解釈が全部当たっているかっていうと全然そんな保証もないんですけどね!

終わる。

 

 

【第157回 芥川賞受賞作】影裏

【第157回 芥川賞受賞作】影裏

 

 

 

 

追記

「あの夜釣りのとこ、今野がもっとグイグイ押せばイケたのでは」「日浅も今野のこと好きだったのでは」っていう感想を見かけてしまったのだが、さすがにその解釈無理ないか?と思ってしまった件について、蛇足だが書いておく。

そもそも前提として日浅が今野をちゃんと好きだったとして、自分にキスしてきた男に冠婚葬祭の互助会への入会すすめてる時点でまあまあの鬼ですよ。
今野の性質を薄々知っていながら、自分のことを憎からず想っていることを態度に出されながら、今野は一体誰と結婚するんだよって話。
究極言ってしまうと、「自分を好きな奴という土俵の上では、日浅にとって男も女もない」という意味で日浅が平等主義者だっただけで、日浅にとっては男の今野だろうと中年女性の西山だろうとどっちでもよかったのではないでしょうか。どっちに対して「俺にはお前しかいねえ」という甘言を吐いても。どっちから契約をとっても、どっちから金を借りてもね。

再三言いますが、あの夜釣りのポイントは二人きりの夜だとウキウキ準備してきた今野と、仕事接待と似た気分で来ていた日浅とのテンションギャップだと思うわけです。
あの日の日浅は、今野から次の契約をとる、もしくは金を借りるつもりだったという線が濃厚だと思う。だから「自分が最初に契約を結んだ顧客だ」というおじさんが途中参加してくるのです。でもデート気分で浮つき、チャラチャラしたキャンプグッズを用意してくる今野に日浅は苛立つし、一方の今野は日浅の態度からくる居心地の悪さから酒を断り、更に別の人間までその場にやってきたという事実から傷付いてメンタルボロボロになった。
そして結局、夜中のうちに自分のアパートに戻った。シラフで。

あれはそういうシーンなので、いわゆる“いいムード”になる余地はなかったといっていい、というのが個人的な考えです。

 

 

ところでキスシーンの導入された映画では、その直接的描写により小説以上に今野の好意が日浅に対して明るみになっているので、契約するときの「今野秋一の挙式は手を抜くなって、ブライダル担当のやつらに触れ込んどくっけ」という台詞が省かれていて安心しました。
日浅はそこにあからさまな空気の読めなさや皮肉を持ち込むとか、そういう方向のやな奴じゃないんですよ。あの台詞を映画の日浅が言っていたとしたら畜生すぎる。

そういう、足し算引き算で、うまいこと人間が小説とのバランスをとっている、いい映画だと改めて思います