ちり・もや・かすみ

は〜 来世来世

小説『影裏』と映画『影裏』、相互補完についての考察


映画『影裏』、観てきました。

 

県内に上映館はひとつ、日曜日昼の回、客の入りは疎ら、男性客は片手にも満たない。
予想通りの過疎ぶり。
予告の感じと、原作が芥川賞作品に選ばれたときの大衆の反応、メディアでの番宣の少なさ……などからこの映画は大ヒットには至らないだろうという予感はあったのだが、その通りですねというか。
わかりやすいアイドル映画ではなく、エンタメ性も薄い作品なので、見所を求めた客は多分賛否の「否」を唱えて劇場をあとにしていることでしょう。


個人的には原作を読んで映画化決定の報を受けてめちゃめちゃ楽しみにしていたくらいに好きな小説だったので、良い映画だったと思っている。
まず、小説よりもわかりやすいストーリーになっていた。
しかし、小説内で言語化された主人公の感情が表情ひとつカメラワークひとつに委ねられるとあっては、ただ映画を観ただけの客層には伝わらなかったのだろうな〜というシーンも多くあって、題材が題材なので仕方のないことだけれど勿体ないと思う。
両方見るのが一番いい。という、結局そんな作品になっていた。

片方だけを見てレビューしている人はわりと見掛けたのだけれど、両者を踏まえた観点からこの作品周りを語っている人はいないようだったので、僭越ながら私なりに考えたことを記事に纏めたいと思う。


オタクには「映画の配給・ソニーミュージック、配給協力・アニプレックスだよ」と添えておこう。


以下、ネタバレだらけで書いていくので、ネタバレなしで観ようと考えている人は注意して欲しい。

 

 

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(映画につけられた解説)

第157回芥川賞を受賞した沼田真佑の小説「影裏(えいり)」を、綾野剛松田龍平の共演で映画化したヒューマンミステリー。「るろうに剣心」「3月のライオン」の大友啓史監督がメガホンを取り、自身の出身地である岩手県を舞台に描いた。転勤で岩手に移り住んだ今野は、慣れない土地で出会った同僚の日浅に心を許し、次第に距離を縮めていく。2人で酒を酌み交わし、釣りをし、遅れてやってきたかのような成熟した青春の日々に、今野は心地よさを感じていた。しかし、ある日突然、日浅は何も言わずに会社を辞めてしまう。しばらくして再会を果たした2人だったが、一度開いた距離が再び縮まることはなく、その後は顔をあわせることなく時が流れていく。そしてある時、日浅が行方不明になっていることを知った今野は、日浅を捜すが、その過程で日浅の数々の影の顔、裏の顔を知ってしまう。

 

 

この解説には伏せられているが、「日浅が行方不明になっている」その間接的な原因は2011年3月11日……つまりあの日のことだ。

 

 

 


『影裏』について

『影裏』は沼田真佑による小説で、彼のデビュー作にあたる。デビュー作でいきなり文學界新人賞を受賞するとともに、芥川賞を受賞した。2017年のことだ。

単行本にして94ページ。100ページにも満たない、短い小説である。
以前、小説家の朝井リョウ氏が「違う受け取り方をされたくない」と言っていた。自分の狙い通りの読み方をされたい、だからすごく説明をしてしまう。そう狙って書かれた彼の小説には「正解」が一パターンしか用意されていないと言ってもいいかもしれない。
この言葉を前にすると、『影裏』はほとんど対極にある小説だ。
勿論、この短さ故ということもあるが、主人公が自分の感情を読者に明示せず内に籠らせていることも大きい。
どうとでも読める。
何も読めない人だっているだろう。

 


小説の事情を踏まえて映画を観ると、モノローグ部分で説明できた主人公・今野の心の動きが小説に増して削られたぶん、行動面やシーンをいくらか盛り込むことで感情の肉付けがなされているように取れた。シーンが増えたことで、小説よりも幾分かわかりやすさを備えた作品になっている。
重要なのは、肉付けされた行動が原作世界に生きる今野や日浅を損なう種類のものではなく、彼らの人間性に基づいた行動様式にもなっていたこと。

原作小説できちんと「言葉」にして説明されなかった箇所が、行動によって補足される。決して「言動」によらないのがポイント。余分な台詞はほとんど追加されておらず、あくまでも原作を大事にした上で映像化していることがよくわかる。
ヒューマンミステリとは違うな?って気はする。他にどう言っていいものかはわかりかねます。

 


映画では日浅が今野に見せる顔が若干変わってしまった気がするが、本質的には日浅ってこんな人間だよねと言える妖しい雰囲気はちゃんと残されていて良かったと思う。(具体的に言うと、今野が日浅を見ておそらくキュートと感じていただろうポイントが、多少減じていた。映画の日浅は「何か大きなものの崩壊に脆く感動しやすくできていた」わけではない。)
キャストを見たとき、日浅が綾野剛で今野が松田龍平ではどうかな?と思ったものだが、浅はかな考えだったかもしれない。というくらいにはこの今野にはこの日浅だろうという像がしっくり嵌っていた。


この小説は結末や日浅の人間性含めて読者に委ねている部分があるものの、いくつかの要素は真実としてちゃんと用意されている。如何せん、それらが読み解きづらい構図になっていることが話をややこしくする。短い話だし、どのシーンにも事件らしい事件はなく、難解な要素を含んでいないのに不思議だね。

 

 

それではいくつか、原作と映画で補完しあっている部分について考えてみる。

 


1.主人公の性的嗜好

と書くのは些か腑に落ちない。が、一番説明に手間取らないのでこう表現させていただく。

主人公・今野は男性である。どちらかというと大人しく、平凡な男で、転勤になった岩手で一人暮らしをする。どうにも田舎に馴染んでいけない不器用な男で、人付き合いにもなかなか積極的になれなかった。というよりも、いかにもそういうことは不得手といった様子。映画の、特に序盤では、こうした不器用さに鈍臭さがプラスされている。
そんな彼に近付いてきたのが同じ職場の同僚、日浅である。人当たりがよく、器用で、自由奔放な男だ。髪は自分で切るので主に伸ばしっぱなし、このご時世に携帯すら持たない。その日浅の方から距離を詰められることで、二人は友情を深めていく。釣りをし、酒を飲んで、夜を過ごす。意気投合して、という表現は合わない。“日浅が今野に”近付いたのだ。

 


小説序盤、今野が日浅を見るときの「目線」に注目したい。景色の情報については細やかに美しく思い描くのに対し、日浅については少し頼りない。彼の容姿やスタイルについてひどくぼんやりしていて、実態が掴みにくい。
ただ、彼の行動をどう解釈して自分がどう受け止めているのか、それについては雄弁だ。
日浅の「巨大なものの崩壊に陶酔しがちな傾向」が「ある種壮大なものに限られる点」を「小気味がよ」いと感じるのもそう。退職を選んだ日浅の元いた部署の悪待遇を思い、「いつまでも甘んじている日浅じゃないと、そう考えていたわけではない」が、「日浅はどうも、時代を間違えて生まれてきたように見える」という感想もそう。
今野には日浅が何か大きく、特別な人間のように見えていたのだということが窺える。
そのくらい心酔していたわけなので、小説内では今野の色メガネを通じた日浅が風景と同系列に切り取られている。
小説内中盤まで、彼の感情の正体は謎めいて見えるものの、察しの悪い読者にもわかりやすいエピソードがここにきてようやく挿し込まれる。


今野の元へ連絡を入れてくる相手がいた。「副島和哉」という。仙台に出張に来ているというその人物と今野は、原作内の時間軸では会うことがない。代わりに、電話で言葉を交わす。彼の声はすっかり女性のものになっていた。
女へと転換手術を終えた彼女(彼)と話し終え、今野は「妹の結婚相手との顔合わせ」というイベントに思いを馳せながら副島と結婚していた可能性について考える。副島とは二年付き合っていた。
この今野の元恋人であった、元男の副島という存在が、物語における今野の色メガネの正体に直接的な気付きを与える。
今野は重い友情を同性の日浅に対して向けていたというのみではない。それに留まらず、岩手に来るより前から今野は同性に恋愛感情を抱くタイプの人間だった。(そして副島はおそらく、本質的に自身を女性だと認識しており、転換手術を受けるに至った。その性的解釈の齟齬が二人の別れの原因と推測される)


ここからが映画の話。
わざと一人に絞ったスポットを当てることは可能だが、それでも観客は今野の色メガネを装着していない。風景と日浅は等しくこちらの目に飛び込んでくる。日浅が何故今野にとって特別に映るのか、今野から日浅への「重たい友情」の根本はどこに繋がっているのか。
日浅のいる日常の輝きを恋慕という観点から観客に認めさせる、というのはこの映画における課題だったと思う。小説と同様の道筋から今野の想いを知るのは映像としては不可能だ。

だから文章の行間を読む、以上のわかりやすい展開が必要となり、原作にはなかったあのキスシーンに繋がったはずだ。

 


二人で今野の部屋で飲み、うたた寝をしていた夜。ソファから起き出した日浅は、床で仰向けに寝ていた今野の方に近寄る。その首元に手を伸ばす。気配で目を覚ました今野相手に、日浅は穏やかな様子で蛇が今野の体に乗っていたことを伝え、「毒性はないと思う」と口にしながら蛇を外へと追い出す。
蛇が体の上から退いてもぼんやりしている今野に、日浅が再度近付く。呆然としていた今野が突然弾かれたように動き出し、日浅にキスをしたのだった。

このとき、今野は決定的なことを何も言わなかった。好意を口にしなかったし、日浅の名前さえ呼ばなかった。日浅もまた、自分に襲いかかる今野を全力で拒んだものの、「やめろ」以上のことは言わない。暴言を吐かないし、今野のことを否定しもしなかった。今野を引き剥がし、彼の中の衝動がおさまったことを確かめた日浅が言ったのは、これだけ。「もう寝るぞ」

翌朝今野の目覚めたとき、日浅は部屋にはいなかった。彼は外(バルコニーか?)に出て煙草を吸い、昨日までとほとんど同じく「お前の川に連れて行け」と釣りの誘いをした。……

 


このシーンは映画内の感情のほつれを観客がはっきりと理解できるように加えられたシーンに違いない。が、言葉にしない今野と問い詰めない日浅の人間性が大事にされたシーンになっていて、決して余計なシーン、ましてやサービスカット的な扱いになっていなかったことは好印象である。

映画を追っていくと、二人の出会い〜初めての飲みの場面に顕著だが、日浅はこちらに遠慮なく距離を詰めてきたと思えば、一歩を埋めようとこちらから踏み込めばさっと躱す、みたいなところがある。
夜中に押しかけてきたのに泊まれば?という言葉にうんと答えない。今野も必要以上に食いさがれない男で、そういう踏めこみきれない今野と踏み込ませない日浅の性格をそのままに注ぎ込んだシーンだった。

ここで私たちは、認識する。今野は日浅を好きであることを、或いは原作以上に正しく認識するのだ。


(もっと片鱗に近いものが画面上にある。映画の今野はやたらと脱ぐ。季節は夏、今野は寝間着として着ているスウェットパンツをはかないで、下着のボクサーパンツで寝ていることが多い。このとき見える脚。スネ毛はきちんと処理されていて、今野の脚は綺麗だ。これを「そういう」視点から見るのは強引すぎるだろうか)

 

 

2.副島の存在

小説では声のみの登場で会うことがなかった元恋人・副島と、映画では今野が再会するシーンがある。まあここは彼女の存在なくしては「今野はただ孤独な夜を過ごした」となってしまうので、どこかで出ていて欲しい人物ではあった。ただし声だけの登場では単に女性との会話となってしまうので、きちんとその姿を見せる。この役は男性俳優が女物の服を纏って演じている。
これが女装でないことは、今野の「手術はいつだったのか」という問いにより補われている。
ご本人も映画の宣伝時、ツイッターで役柄の細かいことに触れていなかったので敢えて俳優名を書くことはしないが、不必要に女を強調せず、自然な発声で演じていたので、とても良かったと思う。
この方、こういう「映画の大事なところに触れるので前番宣をなかなか正しく発信できない役を担当する」みたいなパターンを以前から何度か見かけ、その度に「いい役なのに事前情報を発信しきれず勿体ない」と「そんな役を引き受けてくれていい人」という思いが共存してしまう……。そんな感じなので好感度が高い。

 


3.鈴村さんというおばあちゃん

今野のアパートに住む、口うるさくて繊細、面倒なおばあちゃん。映画で今野の頼りなく不器用な様々を補足するように、彼に対して強気でガミガミ言っていた人だ。
小説では昔教鞭を執っていたことを今でも誇りに思っていて、元教え子の子供が作文コンクールで賞をとったことが新聞に載ると、それをコピーしてアパートの郵便受けに配り回る。「些細なトピックも隣人に触れ回らずにはいられない、たぶん寂しさからくる自尊心の衰え」と、「こうした話題を直接口でつたえる相手を持たない孤独の暮らし」を今野に感じさせる。悪人ではなく、おそらくは正しさの勝る人に違いないのだが、隣人にしておくにはつらいタイプ。
映画では元教員の経歴が消え、足が悪いのをおして住人に口うるさく注意して回る厄介なおばあちゃんになっている。作文は「孫が書いたので読んでください」という名目でポストインされるのだが、孫がいる=家族がいるという図式の中での一人暮らしの老人、という彼女の孤独感がより一層際立ってしまった。
映画のラストで鈴村さんの部屋にハウスクリーニングが入っている。果たして彼女はどうなって、どういう経緯でアパートを出たのか。詳細は不明。家族と暮らすことになったか、老人ホームに入ったか、それとも……。

 


4.今野に見せた日浅の顔

映画の日浅は、光が結構濃い。
小説はかなり短い文量の中で時間経過を表し、多数のエピソードを数行で片付けて彼の影を見せている。よって、主だって語られるのは会社を辞めて営業職に就いた元同僚の日浅なのだ。元同僚になってからの日浅はかなり胡散臭い男で、今野の色メガネをもってしてもカバーしきれないところがあった。
映画も基本的に言ってること、やってることは同じだが、同僚として過ごす日浅が長く画面にいて、裏の顔を映すまでに結構間があった。「今野の少し遅れてやってきた青春」としての日浅が丁寧に描かれ、それは光と言って差し支えない存在だった。

会社を辞めて今野の前から姿を消し、そして再びその前に現れた日浅。彼は冠婚葬祭の互助会関係の営業マンになっていた。誇れるものなど何もないと言っていた日浅が、自慢げに新人にして売り上げトップをとったことなどを語る。……後に彼が現れたのは夜中で、いつかの夜と同じようにその手には日本酒。以前と変わらず「やろうぜ」と言う日浅を、今野は喜びと共に招き入れる。
日浅から今の仕事の話を聞いたり、互いの釣りの調子などを語らいつつ飲み交わす。

冠婚葬祭事業について彼から聞いて、実際のところ今野はどう思ったのか。
その夜、勢いで遂に日浅にキスをしてしまう、今野は。
当の日浅から「もうお前に頼るしかないんだ」と言われ、男女が微笑み合う写真に彩られた結婚式のプラン表を前に、「話を聞いてて、実際いいなって思ってたんだよ」と空々しい言葉を吐きながら一口分の契約書に印鑑をついた今野は。一体、どんな気持ちだったのだろう。

自分に迫った友人を日浅は責めたり咎めたりせず、殊更親切にするでもなかった。急に態度を変えなかった。再会してから距離があいてしまったけれどそれでも今野にとって無二の人で、「日浅にとっての今野もきっと特別な友人であっただろう」ということだけは今野も信じたかったのだ。
だが、日浅は今野に対して誠実ではなかった、と思う。

 


影裏で一番の山場となるシーンが、あの夜釣りだ。
日浅から、(彼にとっては契約の礼という名目で)夜釣りに誘われた今野。それはもう浮ついた気持ちで、細々とした色々なものを用意して指定の場所へとやってくる。身一つで来いと言われたにも関わらず、今野が用意したのはアウトドア用のテーブルにイス。チタンプレート、GSIのパーコレーター。バーナーにランプ。いかにも形から入ったような、素人が背伸びしたようなラインナップ。テーブルにはピクルスを用意し、ニットキャップを被った今野は、少しはしゃいだ様子で日浅の到着を待つ。
しかし、日浅の反応はつれない。確かに、そのあと彼らがした釣りの内容や釣った魚を串に刺して焚き火で直に焼くあの粗野な感じと、いかにも実用的でないメルヘンチックなキャンピンググッズは不釣り合いだった。「なんとも言えないけれど収まりが悪く落ち着かない感じ」を日浅が苛立ちとして露わにしてしまうのは、やるせなくても仕方がないところだった。彼らは噛み合わない。日浅は自然の中に育った東北男児なのである。

その様子をまず「ママゴトかよ」と非難する。ブランケットとダウンベストに「そんなに寒くもねえけど」と口を出す。駐車位置にイチャモンをつける。等々。(ここの帽子について、原作では「ニットキャップはかぶると男は哺乳瓶みたいでぶざまになる」という比喩だったのが、哺乳瓶ではなく「ゴム」になってて、すごい直接的になったなあ、とちょっと感心した)
この冷水を浴びせられたような感じは小説ならではだと思っていて、喧嘩や仲違いまではいかなくとも雰囲気が悪くなった二人のやりとりがこう、ウッとくる。途中で日浅の現職場での顧客だというおじさんが加わり、今野の浮ついた気分は益々下降する。勝手に期待して、日浅から思うような反応を得られず、また二人きりですらなくなったのだから彼の心からすれば自然な流れだ。
ところで、映画では後日譚として、この日日浅に馬鹿にされた女々しいキャンプ的な釣りを、今野が新しくできた恋人と純粋に楽しんでいる様子が出てくる。恋人がうたた寝をする横で今野は竿をふるい、画面の左端にはあの日と同じようなテーブルが置かれている。なんか、あれはあれでウッときた。

 


5.日浅と西山さん

映画で言うと、最初に今野の車の前に飛び出して今野から日浅のことを聞き出そうとする女性、それが西山だ。
今野・日浅と同じ職場で、日浅がいたのと同じ現場(倉庫)で働く中年女性。今野は彼女から、「日浅は死んだかも」という可能性を提示されるのだ。
この女性がまた胡散臭い人物なのだが、急に仕事を辞めた日浅とはそれからも会っていたようである。彼に言われるまま、自分と夫の分を一口ずつ契約し、互助会に入った。上の娘は高校生だったが条件付きで入会した。あと一口と日浅にねだられたが、下の娘はまだ中学生なので断った。断ると今度は「お金を貸して欲しい」と持ちかけられる。日浅を「極悪人」とするには大した金額と言えない、30万円。原作では西山は、5万円余分に用立てたことになっている。(今野は「おそらくは一種の親心から」という虚しい推察をしている。親心なんてものから所帯を持つ女が赤の他人の男に対し、5万円用立てたりするものか。)
西山が日浅を探す理由のひとつはここにあった。震災後、状況が変わったので「あの30万円をすぐに返してくれると助かる」と言う。
日浅を探す西山は、彼の職場にも電話した。まだ十代にも思えるたどたどしい娘が電話に出て、「日浅なら行方不明です」と答えたという。匿っていると思った西山が彼女を問い詰めていると、上役に代わって日浅との関係を尋ねられた。西山は咄嗟に答えた。「彼女です」

映画では、そこまで勢いよく喋っていた西山が失速、口篭るシーンだ。今野はそこから「何かを」読み取るのだが、やはり追及しない。

小説での今野は映画よりは深くその言葉の真意について思いを巡らせたが、やはり敢えて本質を避けるように語る。
西山が日浅の行方を執拗に追いたがる理由は、お金だけによらない。彼女は、職場の電話口の「女」に対して匿っているなと思った。一回り近く年齢差があるだろうかという年齢差の中年女性が、「彼女です」なんて言い訳をして三十代半ばの男の職場に電話したこと。
日浅は「もう今野しか頼れない」と思って今野の元に現れたのではない。彼は、そうやって契約をとっていた。
日浅は、西山とおそらく(確実に)不倫関係にあった。

この部分は映画だけだと見落としがちな日浅の「裏」なのだが、影の一番濃い部分のひとつとして重要な文脈を含んでいると思う。会話だけを見ると原文とさしたる違いがないことから、やはりこのあたりの関係は改変なくそのままにされていると考えられる。


西山から三口絞り、更に金まで引き出した日浅。一方、今野からは一口ぶんの契約しかとれなかった。
これは震災後、日浅の行方がわからなくなってから知れたことだが、近くに家族はいなく、自分以外に友人のない今野を相手に、日浅は入会した今野の名義を、勝手に高額プランへ変更させてしまう。これは説明もなく、営業もなく、日浅自身によって勝手に変えられてしまった契約だった。

そもそも、彼のやっていた「営業」とはなんだったのか。
実は今野は、「互助会に入ってくれないか」と言った日浅に、こんな内容のことを思っている。「きっと日浅は、十日前自分のところに来たときは結局言い出せず手ぶらで帰り、今ようやく契約の件を持ちかけることができたのだろう」と。だが、今野がそう受け止めることこそ、日浅のシナリオではなかったか?
だって、今野が契約の判をついて日浅を送り出したあと、今野はアパートの階段に見ているのだ。日浅が自分を待っていた場所に、煙草の吸殻が落ちているのを。契約をとろうと奔走するでもなく、ただじっと今野の帰りだけを待っていただろう日浅のことを察しているのだ。

彼の裏切りの程度だとか悪人具合が問題なのではない。日浅の些細な言動が凡そ嘘まみれなことが、この作品においては最大のキモなのだ。
今野の想いはこの際脇に置いておいても、彼が心を許し、一番の友と思っていた男は、全くのデタラメから出来上がった人間だった。

 

 

6.日浅家

日浅は震災後、三ヶ月経っても捜索願が出されなかった。痺れを切らした今野は、彼の父親が暮らす実家へと赴く。そこで彼の父から、息子とはもう縁を切ったから、行方不明の届を出すこともしないと言われ、その具体的な理由を聞く。

日浅は高校まで地元に暮らし、大学進学を機に一度上京して、そしてまた地元に戻っている。東北訛りが和らいだのはそのせいだと言う。これは一部が嘘で、父親はある人物からの文書により真実を知った。四年間東京に出ていたのは本当だが、大学になど通っておらず、四年後父親に見せた卒業証書は日浅により偽装されたものだったのだ。(文書によるタレコミをした相手は、その偽装の手伝いをした者だった)
学生課によると、そんな学生は過去に存在しなかったと言われた。(ちなみに小説では、大学合格の通知自体は本物だったとある。彼が四年間どうしていたかは置いておくとして、上京するまでの経緯そのものは真実だった)
しかしながら、四年だ。他人から「たかだか経歴詐称でしょう」などとと言われても、妻に先立たれ、男手ひとつで二人の息子を育てた父親は淡々と「四年もの間仕送りをしていたこと」「半年に一度は学費だと言って80万円を支払っていたこと」を話し、立派な横領だと言った。
四年も気付かなかったのか?という今野の問いに、「信じとったんです」と過去形で話す日浅父。
その信頼を裏切り、誰に対しても嘘偽りを貫いた日浅に、「あのばか者のためにどなたの手も、わたしは煩わせる気は起こらんですよ」「ほかの真っ当な生活者の方々と、あの男とを、同じ行方不明者のリストにのぼせるなんて、わたしは烏滸がましいことだと思いますがね」というのが父の意見だった。
また、父は「息子は生きていますよ」という見解も述べる。更に「この災害の混乱に乗じて火事場泥棒が横行しているとニュースで報じられているが、奴は本来あちら側(泥棒側)の人間だ」と分析する。

確かに日浅は、リセットのときを迫られていた。
空白の四年がある。何をしていたかはわからない。これは映画内ではなくなったやりとりであるが、彼の性質として父は「決まって一人の友人としか付き合わない」と語る。

「いつも同じ子供とばかりいるなと思っていると、ある朝全然別な子供が玄関に現れ、しばらくはその子とでなければ登校しない。じきにまた別な子が来たかと思うと、今度はその子にくっついている。どれも長続きせんのですがね。」

彼はつまり、そういう生き方をする人物だった。成長し、「大学へ行く」と言って、実際は通いもしない大学に行くために東京に出た。四年経って東北に戻り、製薬会社の倉庫課に就く。それも辞めると、冠婚葬祭の互助会営業へ。彼の人生は偽りと、再生が共にあった。少しずつリセット、修復しながら生きていた。
改めて、全部をチャラにする絶好の機会が訪れた。それがこの大災害であったのかもしれない。
あくまでも可能性なのだ。だが、日浅の父親はそう確信している。そして未だに日浅について「確信」なんて言葉を寄せられるくらいには、この父は息子を愛していたのではないかと思う。
原作では、波に身を任せる日浅の妄想を捨てられずにいる今野も、日浅のある種のたくましさ、生命力を認めている。火事場泥棒たちの卑怯な図太さと日浅を同列に並べ、「日浅がそういう輩の同胞であるのを頼もしく」感じてさえいる。

結局、日浅が姿を消し、屍すら見つからない以上は、決定的なことなど誰にもわからないのだ。わからないから汲み取らねばならず、『影裏』は今野が日浅の周辺からなんとか汲み取ろうとしていく物語なのである。
日浅の行方は知れない。でも、今野は生きている。生きているから、前に進まねばならない。
原作では、ここまでで、これより先のことは語られず終わる。


映画では日浅父との対峙シーンの他に、兄と会話するシーン、互助会から身に覚えのないプラン変更の通知が来るシーン、そして新たに恋人を得た今野が釣りに行くシーンが挿入され、それをクライマックスとしている。
正直、下手にモノローグの入れようが無い映像作品で、原作通り父親との会話をクライマックスに置くと、今野が日浅父から得た、日浅の生命力への期待と希望、図太いまでのたくましさを信用することにしたポジティブ寄りの感情が伝わりづらく、苦しいままに終わる後味の悪い映画になった気がする。だから前進する今野の未来を描くことにした判断自体は、映像媒体においてきっと仕方のないことであったのだろう。原作通りの難しさだ。

だが、兄と会話するシーンは個人的にあまり意味を見い出せなかった。結果的には兄も弟についてはわからないということだったし、同じことを繰り返しているだけでは。
柘榴のモチーフを取り入れたのもオリジナル要素なのだが、このオリジナル展開の会話内で一応柘榴の木についても話の回収をしている。……してはいるものの、わざわざ兄を挟んで解読させるほどの何がここに込められていたのか?ここだけは謎が残った。

 

 

7.火と柘榴と影と

映画内で使われて、印象的だったセリフを幾つか。


「わからないままの方がいいこともある」

今野と日浅が最初に行った釣り。何故か岩手の川釣りでニジマスが釣れた。なんでこんなところで?と疑問がる二人、今野は「調べとく」と言うが、日浅はわからないままの方がいいこともあると言う。日浅という人物そのものの示唆と言えなくもない。
ラストシーンで、釣りをする今野の竿に、再度ニジマスがヒットする。

 


「ガラスみたいな火だな」
「薪でいちばん優秀なのは流木なんだぜ」

 

流木に燃焼の速度で違いが出る。よく乾燥しているかどうかが問題なのだが、火をつけてみるまでは誰にもわからない。じわじわと育てることが大事、前戯が大事なんだ、と日浅は言った。
人の感情もそうなのだろうか。彼は周囲の人々の感情をじわじわ育てていたのだろうか。
今野が日浅に声を掛けたのは、日浅が禁煙の札を無視して煙草を吸っていた現場だった。二度目に話したとき、今野は日浅から吸いかけの煙草を「吸っていいよ」という言葉と共に受け取っている。煙草も火だ。
火は影裏の日浅を語る上で、重要なワードである。原作の今野が日浅の魅力を語る上で用いていた例がそうだった。
日浅の言っていた火のエピソードで興味深かったものは他にもある。山火事の話だ。「火の元はなんだったと思う?線香だって。あんな小さな火が山を燃やしてしまうんだ」

 

 

「人の味だからな。……柘榴の実は人の肉と同じ味がするんだって。昔、近所のばあちゃんが言ってたよ。」

 

柘榴の実を持って現れた日浅。中の粒を一つ一つ食べようとする今野の実を取り上げ、「ガブッといくんだよ」と言って手本に一口齧って、彼に返す。
印象的な場面だが、ここだけは隠喩が汲み取れていない。
日浅はわりと人を踏み台に(語弊)するところがあるけれども、人を殺すような悪人ではないではないか?人の肉という語をわざわざ出してきたのがよくわからない。

 

 

「死んだ木に苔がついてその上にまた新しい芽が出る。その繰り返しだ。屍の上に立ってんだ、俺たち。」

 

日浅がいなくなってなお、今野の胸の内でリフレインする言葉。
生きているので、乗り越えなくてはいけない。
日浅は、他人の感情や立場、資産などを巧妙に奪い、屍の上に立って生きていた。
今度は今野が彼の屍の上に立ち生きるのか……?

 


‪「知った気になるなよ‬」‪「お前は光の部分しか見とらん‬。人を見るときはな、まず影の一番濃い部分を見るんじゃ‬」

日浅の言葉だ。これはあまりにわかりやすい暗喩である。彼が話したかったのは今野と日浅という人間と、二人の関係についてだ。
今野は日浅の光の部分しか見ていなかった。
日浅はどうだろう。今野の一番の薄暗い部分を把握した上で、彼を意のままに操ったのか。

 

 

 

 


いい映画だった。岩手の風景も綺麗で、今野が日浅と過ごす日々はまさしく青春で、キラキラと輝いていた。
それだけに日浅が画面から消えた、行方不明以後の世界は失速したところがあり、映画の緩急って難しいんだなと思ってしまった。

 


前置きで触れたように、おそらくヒットは難しい映画だということは承知している。
でもいい映画だと思っているし、個人的に思い入れのある作品だったので、「観たけどわからなかった!」と言っている人たちに、解ってくれ〜〜という念を送ることだけは許して欲しい。
いや、別にわからなくてもいい、「わからないから嫌い」にならないで欲しい、と願っている。


まあ私の解釈が全部当たっているかっていうと全然そんな保証もないんですけどね!

終わる。

 

 

【第157回 芥川賞受賞作】影裏

【第157回 芥川賞受賞作】影裏

 

 

 

 

追記

「あの夜釣りのとこ、今野がもっとグイグイ押せばイケたのでは」「日浅も今野のこと好きだったのでは」っていう感想を見かけてしまったのだが、さすがにその解釈無理ないか?と思ってしまった件について、蛇足だが書いておく。

そもそも前提として日浅が今野をちゃんと好きだったとして、自分にキスしてきた男に冠婚葬祭の互助会への入会すすめてる時点でまあまあの鬼ですよ。
今野の性質を薄々知っていながら、自分のことを憎からず想っていることを態度に出されながら、今野は一体誰と結婚するんだよって話。
究極言ってしまうと、「自分を好きな奴という土俵の上では、日浅にとって男も女もない」という意味で日浅が平等主義者だっただけで、日浅にとっては男の今野だろうと中年女性の西山だろうとどっちでもよかったのではないでしょうか。どっちに対して「俺にはお前しかいねえ」という甘言を吐いても。どっちから契約をとっても、どっちから金を借りてもね。

再三言いますが、あの夜釣りのポイントは二人きりの夜だとウキウキ準備してきた今野と、仕事接待と似た気分で来ていた日浅とのテンションギャップだと思うわけです。
あの日の日浅は、今野から次の契約をとる、もしくは金を借りるつもりだったという線が濃厚だと思う。だから「自分が最初に契約を結んだ顧客だ」というおじさんが途中参加してくるのです。でもデート気分で浮つき、チャラチャラしたキャンプグッズを用意してくる今野に日浅は苛立つし、一方の今野は日浅の態度からくる居心地の悪さから酒を断り、更に別の人間までその場にやってきたという事実から傷付いてメンタルボロボロになった。
そして結局、夜中のうちに自分のアパートに戻った。シラフで。

あれはそういうシーンなので、いわゆる“いいムード”になる余地はなかったといっていい、というのが個人的な考えです。

 

 

ところでキスシーンの導入された映画では、その直接的描写により小説以上に今野の好意が日浅に対して明るみになっているので、契約するときの「今野秋一の挙式は手を抜くなって、ブライダル担当のやつらに触れ込んどくっけ」という台詞が省かれていて安心しました。
日浅はそこにあからさまな空気の読めなさや皮肉を持ち込むとか、そういう方向のやな奴じゃないんですよ。あの台詞を映画の日浅が言っていたとしたら畜生すぎる。

そういう、足し算引き算で、うまいこと人間が小説とのバランスをとっている、いい映画だと改めて思います

お盆休みに備えて積読を増やしてしまった

 

お盆休みが来ました。

今年の夏は溶けるかと思うほどに暑い。
ただ寝てるだけでもものすごく体力を使うし、立ってても座ってても体力使うし、というか毎日寝苦しくて慢性的寝不足に拍車がかかっていてつらいです。毎日。もはやどんな体勢でも幸せじゃない。背筋を伸ばしても腰を曲げても背中を丸めても正座してもあぐら組んでも仰向けでもうつ伏せでもなんかつらい。今は特に生きていることに向いていない。
この数日でようやく多少の楽を手に入れて、気持ち的にも……まあ連休ですしね……

そんなわけで、連休中に出掛けたくもない、時間が有り余ることが容易に想像できる自分のために本を購入してきました。
そろそろ本買うのは中断していくことを視野に入れないと生活していけないし収納にも限りがあるんだけどな……と本格的に憂い始めたのが先月の話。


なんでまた買ったの。

 

以前のアメトーーークの読書芸人回で「一万円あったら何を購入するか」みたいな企画があり、
いつかやってみたいな、
と思っていたのが今回実現しました。

でも単純に「普段は購入に踏み切りづらいけど長らく目をつけていた単行本を購入することにした」って感じになりました。

 

 

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内訳

『負け逃げ』 こざわたまこ
送り火高橋弘希
『ファーストラヴ』 島本理生
異類婚姻譚本谷有希子
『成功者K』 羽田圭介
『おらおらでひとりいぐも』 岩竹千佐子
『R帝国』 中村文則

7冊くらいなもんなんですね。へえ、こんなものか。
文庫本は負け逃げのみです。

 

芥川賞作品が3/7だと目立つ感じですね。
やっぱり売れ行きとか(書店勤めでないので客観的な感想になるけど)見ていて思うのですが、純文学って文庫になる率が低いし文庫化が定かではないんですよね。読みたくてしょうがない状態で待っていても読めないからしょうがないし。
今回の芥川賞直木賞受賞作はどちらも気になったのでこの機会に積読に加えましたが、感覚で言わせていただくとおそらくファーストラヴはいずれ文庫化するだろうと思います。元より人気作家で既に固定読者もついている島本理生さんですし。これはするだろうなと思いながら買いました。でも送り火は文庫化するとしてもファーストラヴよりずっと後だと思いますね。するのかな?それさえも疑問です。
異類婚姻譚もまだ文庫化されてませんね。これは近々されるかもなと思いつつ、気になっていたものだった為入れました。スクラップ・アンド・ビルドが今年文庫化され、同じ回の夏の裁断が「祝直木賞」の帯とともに今夏文庫化されて書店に並び始めたので、本当にそろそろかもしれないです。同時受賞の死んでいない者もまだですしね。こう考えると火花がいかにバケモノだったかがわかる気がします。この中では明らかに早い段階で文庫も書店に並んでいましたよね……。

まあそういう打算を入れつつ、やっぱり欲しいので欲しいものを買いました。

 

しかし芥川賞作品は募集要項として長編が有り得ないので、文庫化の際に書き下ろしがつく可能性があるのが痛いです。
例えば先述の夏の裁断、単行本で読んだのですが文庫化にあたって書き下ろしがついて短編集と化した為に興味が湧いてしまう自分がいる……。

図書館の使い方を覚えてしまったのが積読消化を阻む原因のひとつなのは疑いようがないですが、我が町の弱小図書館には文庫がほとんどないので、文庫だけは自分で手に入れるよりほかに方法がないんですよね、現状……

 

いや、入手方法を心配してもしょうがないんですけど。

そんなことより読んでも読んでも減らない積読本の数をどうにかせねばならない。
このお盆が勝負なのである。

2018年上半期 選出5冊

 

お久しぶりです。いつの間にか2018年が訪れて、しかも今年初の記事になるみたいです。なんのことはない感想ブログですので、今後もこの調子でまったりお願いします。

 

それはそうとして、今回も今年上半期の読了本から何とか五冊を選出しました。迷いました。

今年の1月から6月までの半年間で、初読51冊の本を読みました。

 

内訳は

1月 8冊

2月 8冊

3月 5冊

4月 8冊

5月 9冊

6月 13冊

の計51冊です。

 

 

今回は当たり本も多かったですが冒険もしたのでイマイチな本もまあまあありました。期待外れも少し混じって……いや、楽しめないメンタルだったものもあったのですが。時間を置いて再読したいと思います。

あと、今までは結構「人があまり目をつけていないコアなところにも目を向けていきたいな」と思っていたのですが、やっぱり賞をとったりノミネートされたりしている作品が面白いんだという当然の摂理に辿り着きました。最近。気付くのが遅かったですね。

 

 

 

 

2018年上半期 選出5冊

 

 

やはり初読とはいえ今年出た本とか近年の本に限りません。気にしないでください。

選んだ5冊はこちらです。

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サラバ!(上・中・下巻) 西 加奈子

私が信じるものは、私が決めるわ。〜あなたも、信じるものを見つけなさい。あなただけが信じられるものを。他の誰かと比べてはだめ。もちろん私とも、家族とも、友達ともよ。あなたはあなたなの。あなたは、あなたでしかないのよ。

 

文庫化にあたって読みました。直木賞受賞作。エンターテインメント性があるのはもちろんですが、人間の掘り下げが素晴らしいです。

イメージしていたのと違う展開でしたが、面白かった。何より上巻、中巻、下巻と、巻を追うごとに面白くなっていったのが良かった。ちょっと内容に触れますが、下巻で主人公が徹底的に打ちのめされ自信をなくし、性格まで暗くなるという展開があります。そこまで来て更に面白さが加速するものだから読みながらびっくりしたし、すごく興奮した。

 

物語は、「僕はこの世界に左足から登場した。」という文から始まる。

主人公は歩。彼の家族は姉と、両親を合わせた四人。彼の回想によって物語は進む。

彼の姉は、奇抜でマイノリティの自分でないと気が済まない。そんな姉をもどかしく思いながらも、自分かわいさ・努力する自分という意識のせいで姉の異常を受け入れることが出来ずに逆に大変な思いをしている母。大人しくあまり自己主張をしない父。……という家族構成のために「控えめで物わかりのよい子供として生きる」という方法で両親(主に母親)からの愛を得ることを学んでしまった歩。上巻では家族四人でエジプトに住む彼の幼少期を。中巻では家族が完全なる解散に至る彼の思春期を。下巻は彼が社会に出て以降の挫折から再生に至るまでの日々を描く。

 

両親のいいところを引き継ぎ、特に母の愛嬌や手っ取り早く言うと「ヒロイン」属性に似た遺伝を受け継いだ歩は容姿も優れていて人あたりもよく、結構長いこと自意識の高い嫌味な奴です。それも、回想形式なので書き方としてはそのことに気がついている風ですが、その時期の彼は自分の嫌味な部分に気が付いていない。

自分よりも優秀な人間・面白い人間がいることには触れつつ、言外にはしっかりと「でも特別な自分」と含ませて語られている。意識的に自分を抑制し、その「自覚している」というポーズに護られた自己愛をどんどん拗らせていくのがありありとわかるので正直いたたまれないです。自分の演出にしか興味ない。思春期らしいと言えばらしいですが、その自己愛の拗らせ方は歩も姉も大差ないと思います。姉は他の読書家の方の感想を読んでいると相当に嫌われている印象ですが、歩の気持ち悪さも相当だぞと思ってしまう。

下巻になって歩自身も「自分」に気が付くのですが、最終的に響いてくる姉の言葉がやはりいいです。姉は作中の七割……八割かもしれない、そのくらいの間やばい奴で困ったちゃんなので最初と最後で人物像がブレているという批評も多くあります。直木賞選評にも、物語としての不整合を指摘する声もあったようです。

私はそれらの声を無に帰すほど、姉のセリフについては心に響くものがあった。エネルギーや、本気の体温を感じた。

34歳の自分探し。自分と折り合いをつけるタイミングとしては遅い気がする。……が、20そこの若者が「人生とは〜」とか「人を信じるとは〜」とか言ってたって早すぎると感じて鼻白むと思うし、こういうのは年齢じゃないか。

 

主人公・歩の挫折後からが本当に見所なので、そこまでが長いけどみんなに読んで欲しい本です。芸能人の読書家たちもこぞって紹介した有名すぎる本なので今更なんですけど。

私たちはどうしても他人の目を気にしてしまう生き物です。人間だから。でも、自分が好きなもの・素敵だと思うもの・美しいと思うものを、必ずしも他人の目から見て同じように感じるものと合わせなくてもいい。SNSが発達し、簡単に批判出来る/批判される環境になってしまって、一層自分の好きなものさえ他人に管理されるようになってしまった。

別に、他人が同意してくれなくてもいいのだ。むしろ、その芯を他人に委ねてしまってはならない。自分の信じるものを自分で決める。いい考えだなあと思いました。

 

 

 

・グレート生活アドベンチャー 前田 司郎

「あんたなんでそんなに悩みもなく生きられるの?」

「あるよ」

「何よ」

地球温暖化とか」

 

前田司郎は、初めて読んだ『恋愛の解体と北区の滅亡』という作品のジョン・レノンと虎のくだりを読んでから、追いかけていこうと真剣に考えた作家である。世界平和を夢想するジョン・レノンも虎には勝てないし虎はジョン・レノンだろうが僕だろうが差別なく殺すのだ、みたいな文章だったかな。変な切り口で核心を突く人だなあと思った覚えがある。

こちらの作品は過去に芥川賞候補に挙がったものである。今年上半期には二度目の芥川賞候補に挙がった『愛が挟み撃ち』も発売されたが、私には『グレート生活アドベンチャー』の方がハマった。愛が挟み撃ちは、賞の候補作のわりには著者のアクが強く打ち出され過ぎていた。あのオチで賞とってたらそれはそれで面白かったとは思うが。

 

この『グレート生活アドベンチャー』という作品から引用した上の悩みにまつわる会話は、

 

加奈子はながく考えてから「未来が怖い」という意味合いのことを言った。僕は随分スケールのでかい恐怖だと思った。

 

と続く。じゃあ地球温暖化はどうなんだ。会話のほとんどが惚けているんだけど、妙に現状を表している気がするのが前田司郎の作風の特徴である。

この作品で言うと上記部分も好きだが、主人公が少女漫画を読んだときの考察が個人的に好きだ。少女漫画(中学生)の大恋愛を読みながら、こいつらこの先どうするんだ?たとえ二人が結ばれることになったとしてもせいぜいするのはチュー止まりだろう。ていうことは、こいつらはこれだけ全身全霊をかけて得られるものはチューってことになる。 ……というようなことを考えている。はっきり言って余計なお世話だが、その点については私も考えたことあるので思わず笑った。そうそう。特にティーン向けの少女漫画はまるでこれが運命の相手だと言わんばかりで、そこがいいわけだけど、最終もキスしかしないんだよな。結婚まで描くことはあるけど、それはそれで「アッ、あーーーそっか、十代の初恋兼大恋愛がこうなったか……」という勝手な喪失感を抱いてしまう。申し訳ない。私はあまりよい少女漫画読者ではない。

 

そんなとめどない考察をばら撒きつつ、この話の主人公は無職である。年下彼女のヒモをしている、職もないし金もないが、不安もない。ある意味で無敵、怖い存在である。基本的に馬鹿だなあと思って読めるのだが、彼の背後にある未来や生活について読者の方が不安になってしまう。このモヤモヤ感。

主人公は大抵呑気だが、時々我に返ることがある。彼は何かを決めたくなくて、しかし明確なゴールがない状態も嫌う。学業なら〇年で卒業、という区切りが設けられているのに比べ、就業にはそれがない。就職したら、成し遂げるべきものもなくだらだらと仕事を続ける日々が目に見えている。

彼が選んだ逃げ場はゲームであった。魔王を倒すことを目指す。明確なゴールが見えるゲームであった。しかし、それもいざ魔王を倒すという局面に辿り着くとゲームを放り出してしまう。魔王を倒すことをひたすら避ける。この心の動きが不思議と「わかる」と思ってしまう。これについては本当に嫌ですね。でもそういうところあるじゃないですか、誰しも。決定的な何かを回避したくなるところって。

こちらは文庫本で、表題作の他に1編の短編が収録されている。併録されているのは飛び降り自殺の飛び降り中の女性の独白で、1作延々と走馬灯という大変珍しい話。著者の着眼点には脱帽する。面白いが、着実に死に近づいている。不思議な話。

 

 

 

 

・学問 山田 詠美

友情などという野暮で硬質な言葉で邪魔されたくはないのです。親友というありきたりの役割を与えるには、心太は、あまりにも惜しい人なのです。

 

入り口や人物造詣はわりといつもの山田詠美だが、内容がちょっと意外で、全部読み終えるとぐっとくる。

仁美と心太と無量と千穂。四人はありふれた日本語で表すなら幼なじみであるが、親友というと少し違うし、恋愛関係に至ることもない。不思議で特別な関係だった。素子が途中で言っている、彼ら四人と「仲良くしたいと思っているが、仲間に入ろうとは思わない」という言葉が全てを表していると思う。素子は登場回数だけなら確実にこの作品の主要な登場人物だが、彼女はあくまで「四人+一人」の立ち位置から動こうとはしない。彼ら四人は、四人で一つの共同体のような存在なのだ。心太を中心、あるいは頂点として。

しかし、各々思うところはあるらしい。無量は心太の裏を理解し、たとえ彼から離れたとしても自分の意志はしっかり持つ。どんなに心太の近くにいても自立した一面がある。(これは彼が心太と同性だからか、交際相手の素子が共同体の外にいるからなのか。)千穂は、最初から心太のことが大好きだが、それは恋ではなく、麻薬にも似た依存性の執着だ。一旦彼から離れたことでその禁断症状を自覚したために、一度だけ心太と身体の関係を持ち、ようやく共同体から離れて自立することが出来た。

問題は、主人公の仁美だ。仁美は心太に捕らわれた自覚をしないし、彼に恋をすることもないし、身体の関係を結ぶこともない。そして、心太とは一定の距離感を保ち続けている。双子のように傍にいるし、重要なピースであることは互いに承知し合っているのに、それ以上踏み込まない。それを望まないからだ。どこまで共に歩んでも恋愛関係にないから、困惑した周囲は「友情」という言葉で仁美と心太を纏めようとする。しかし、二人にとっては正しいとは言えない。というよりも、仁美ははっきり不快感を示している。素子の言う「支配」が一番近いのかもしれないが、やはりそれも違うと思う。本当は、四人の共同体ではなくて最初から仁美と心太の二人が共同体だったのかもしれない。それにしては心太の存在が強く、上下がすっかり出来上がった関係のようにも思うけれども。

この作品の一面が彼らの人生についてである。それぞれの章は四人+一人の死亡記事から始まる。「まっとうして死にたい」という心太の言葉通り、全員が自分の信念を貫いて生き、亡くなったことがわかる記事が挟まれる。遺された者にはどんなに不本意なものだろうと、本人にとっては自分を偽ることなく「まっとうした」最期を迎えている。短命の人物もいる中で、その事実が影を落としているとは感じない。この小説はキラキラと、青春小説として輝く。爽やかで、刹那的な輝きだ。小説ラストの心太のコメントには特にその煌めきが詰まっている。

作品の持つもう一つの一面が、性の学びだ。作中で「儀式」と呼ばれる。欲望の愛弟子としての仁美が儀式を読み解き、研究をする。男のそれと自分の儀式との差異について。この儀式についての仁美の見解と、男性観がまた心太への盲信に繋がっていることは間違いない。視覚で、聴覚で、または直に触ることで。直接的に刺激されてようやく目覚める男性の官能を、仁美は疑問形で「自慰とか自瀆とか呼ばれるものは、幸せな夜の代わりなのか」と語る。目の前に女性がいないから、裸の写真やらをその代わりにする。代打として。それは仁美にない感覚だった。男性は直接的なものが必要で、それが手に入らない場合は「ピンチヒッター」が必要となる。女性はそれがイメージで済んでしまう。だから、本質的には「実物の男性の身体など必要ではない」という結論に至る。経験と思い出は具体性を伴うイメージとして必要だが、彼女の官能には肉体は不要なのである。

という仁美の男性観を受けての私の見解は流石に伏せるが、なるほどなと思ったのは事実だ。

それにしても、すごいことを言う。掘るほど結構下世話な小説の出てくる山田詠美だが、これはタイトル通り学問的観点から描かれているために、文章にもあまりいやらしさがない。この匙加減は流石の仕事だと思った。著者は真面目な作品も、ちょっとふざけた作品も書くが、前者のいいところが詰まっている。

この本の文庫版は解説が村田沙耶香だ。彼女の男性観も凄まじいものがあるが、山田詠美ファンを公言する村田沙耶香がこの作品から何を得たかがかなり赤裸々に書かれていてびっくりする。しかし、ある意味納得した。村田沙耶香の著書『星が吸う水』の中で女性同士が「エロさが邪魔」という主旨の会話をしていた。この作品を読んで、該当箇所が再度腑に落ちた気がする。

 

 

 

・星か獣になる季節 最果 タヒ

「17歳は、星か獣になる季節なんだって。今日、やった英文読解にね、書いてあった」 〜 「人でなしになって、しばらく、星か獣になるんだって。大人だからってひどいこと言うよね」

 

最果タヒは若手詩人だ。その名前は何かの詩集が読書メーターの献本企画にあがっていたときに知った。詩人というのもそのときに知った。本書はどこかのブログの感想で良かったと言われていたので単行本を探していたのだけれど、全く見つからなかった。文庫化で手に入ったのは嬉しい限り。

詩も書くのに小説まで書けるのか〜これで面白かったら本気で嫉妬しちゃうな〜と思っていたものだが、実際に面白かったものだからぐうの音も出ない。軽やかな文体で、読みやすかった。それでいて心の隙間を刺してくる言葉も多用されているあたり、詩人らしいのかもしれない。ちょっと詩も気になるほど。超絶明るくてハッピーで悩みもない思春期……とは真逆の青春を送った私のような人間ならぐっと心を捕えられてしまうだろう雰囲気だ。正直に言うと、上半期の五選を考えるのに、『サラバ!』に次ぐ二番目にこの作品を選んだ。そのくらい、一読して心に残るものがあった。

地下アイドルが殺人容疑で捕まった。そのアイドルのファンである主人公は、かわいいけれども「平凡」な性質を努力でカバーしているような彼女に殺人なんてことが出来るはずはない、と思い込んで彼女の無実を証明しようとする。実は同じアイドルを応援していた同じクラスの人気者・森下と共に。

あらすじからして暗い話で、事実明るい話ではないのだけれど、気分の重苦しさがさほど続かないのは著者の筆致によるものか。この話で大事なのは多分ストーリーの筋である「殺人」という大仰なものではない気がする。著者の描きたかった主題は、鬱屈とした青春。等身大の十七歳、その特有のギラつきやヒリヒリしたところ、選択の自由と不自由……といった部分ではないかと思う。ただ重苦しいだけの犯罪小説、加害者や被害者の心情に迫る社会派ミステリ、他にも少年犯罪に重きを置く作品などは国内外に既に数多く存在するはずだ。しかし、十七歳の「星か獣になる季節」をテーマに書くにあたって、少年少女が殺人を犯す物語であるというのがこの作品を唯一無二の青春小説たらしめたと私は思っている。

思春期は特に、見えている景色が全てで、客観的に見た善悪をあまり重要視しない。森下の「死ぬより捕まる方が楽だ」という台詞等からもその思考は伝わってくる。思春期の次の段階、『正しさの季節』が続編として併録されている。高校生を抜けた彼らが見つけた「正しさ」はどんなものか、本当に正しいと呼べるのか。

最果タヒ氏のあとがきが、内容補完とかいうレベルではなくかなり良い内容です。人を軽蔑すること・人から軽蔑されることでアイデンティティを勝ち得ていた、誰かを見下すことで安心していた十七歳というあの頃。この小説はこういう形態で存在しているのでちょっと尖っているが、やはり“こういう切り口の「十七歳を描いた小説」”でしかないのだ、と気付かせられた。

 

 

 

・工場 小山田 浩子

大体相手の妹をあんな風に言う口さがなさとそもそも喋り方の下品さ、思考の脳足りなさは早めに死んでおいた方が世のため人のためだ。あのような人間が正社員として社会の一員ヅラをしてのうのうと生きていて、我々兄妹のような善良で気弱な市民が虐げられて正社員の職も手にできないのは不公平極まりない。死ね、死ねと呟きながら何とか眠ったが、翌朝は大変に起きづらかった。

 

この引用部分は『工場』という作品内で唯一と言っていいほど攻撃的な箇所にあたる。そこまでやんわりと否定批判してきた文章が突然攻撃的になるのでなんか迫力あった。

この本を読む直前に『鳥打ちも夜更けには』という本を読んでいた。奇しくも働くことについての小説が続く形になったが、やっぱり自分が今の職に疑問を持っているからかなあ。この本を読んだら一層「やってらんねーーーー」って気分になった。やってられない。辞めたいよなあ仕事をさあ。

その街には就職出来れば勝ち組とされる大企業、もとい大きな工場がある。名も「工場」と呼ばれているその工場。何を作っているのかは不明。必要性も重要性も感じないような仕事をさせられる三人の話だ。

牛山佳子は職場を転々としているが、工場の正社員募集の求人を見て面接にやってくる……というのが小説冒頭にあたる。元はと言えば正社員の求人なのだが何故か契約社員に話が変わり、そのまま非正規雇用で雇われることとなり、彼女はただ書類をシュレッダーにかけるだけの仕事をすることになる。古笛はコケの研究を続けるべく大学に残っていたが、教授の推薦や周囲からの後押しで工場の緑化推進室という新設で謎の部署に一人入れられてしまう。具体的な指示も目的もない一人だけの部署だ。牛山佳子の兄は派遣社員として誰が何のために必要かもわからない文書を、今どきパソコンもなしで赤ペンを手に校正する仕事をしている。この三人を主軸とした「工場」の話である。

デフォルメされているところも多分にあるものの、職の不透明な部分にきりこんだ作品と言えるだろう。目的がわからない、自分の仕事が何かしら「前進」することに貢献しているかもわからないって純粋に生きている上で辛いことだよなと思う。三人もその都度仕事の意味や意義を考える素振りを見せるものの、次の瞬間にはまた工場の歯車に戻っていてそれもまた辛い。

牛山佳子は前の職も長続きせず、はっきり働きたくないことはわかっているのに、働くことを放棄してまでやるべきことも持っていないので働くという循環に陥っているわけだ。すごく刺さる思考回路だ。その通りすぎる。働きたくないが理由を聞かれても他にやりたいことがあるわけでもないので職が手放せないのは私も同じだ。そういう人だらけだろう、実際のところ。その彼女がやらされるのがひたすらシュレッダーをかけるだけの仕事。部署を設けて仕事にすることか?という程度の仕事である。

古笛はコケの研究という生き甲斐を持っている。親も自分の生き方を認めてくれているものと思っていたのだが、工場からの就職話が持ち上がった途端に舞い上がる様子を見せる。また、前述通りたった一人の部署に就いて専門の知識を用いて屋上の緑化に取り組むというのだが、それ以上の指示はない。謎の厚遇を受けて給料も多く、立場もかなり上なのだが、就いてから十五年になるのに十五年間も「こけのかんさつかい」を毎年開くだけで工場的には何の実践もあげていないらしい。

牛山の兄は元エンジニアなのに、派遣で何の役に立つのかわからない文書を赤ペンで校正する仕事をしている。誰が読むのか、自分たちのあとに読む人間がいるのかもはっきりしないものを真面目に読んで校正する。彼は三人の中では比較的仕事に前向きなタイプで、だからこそ仕事をやるからにはその意味を考える方だ。派遣を送り込む側の会社に自分の彼女が勤めており、恋人が見つけた求人で工場に派遣されているという意識もそうさせるのかもしれない。

順応はどこまで必要なのだろう、と考えさせられた。

作中には、ヌートリア、工場ウ、洗濯トカゲという架空の生物(この工場の環境に順応したとされる新種生物とみられる。ここで言うヌートリアもそうらしい。)が登場する。それら生物については、小学生が纏めたレポートによってなんとなく生態系が掴めるようになっている。この際だからネタバレを言うが、三人はラストシーンでそれぞれがこの架空の生物になります。なんでや。読書会で「カフカの変身みたい」って言われましたが、どうやら書く上での参考にはしているみたいです。あーーー私は工場ウになる前にとっとと仕事辞めたい。

この本には残り2篇の短編が収録されている。どちらもオススメだが、強いていうなら『いこぼれのむし』で、これも職についてがテーマにある。ただしこちらは職場での人付き合いの方で、『工場』よりも現実に沿った書かれ方をされている。人によってはこちらの方が共感するかもしれない。この短編は悪意よりも世渡りの部分が強調されているし、ぶっちゃけ『工場』よりも読みやすい。まあ今の悩みは人間関係とは別のところにあるから『工場』の方が刺さったのかな。気になった人には読んでいただきたいです。

 

 

 

以上5冊でした。

単行本を多く読んでいた半年でした。50冊以上読んだのに、今年の積読数60冊からなかなか減らない。そろそろ購入自体を控えた方がいいと思いました。真面目に。

あと個人的に他の作業が控えていても習慣として読めたら積みも減るのかなと思うなどしました。尾崎世界観さんが自身で小説を書くにあたって、書いていた期間が人生で一番本を読んだというエピソードを話していたことがありますが、つくづく格好よすぎる。その姿勢が。私ももっと読むスピードを上げていきたいです。

そんなことより本棚を整理しようとする姿勢ですよね。

 

やりたいことが多すぎる。

2017年下半期 選出5冊

今年の7月から12月までの半年間で、初読61冊の本を読みました。

一応内訳としては
7月 7冊
8月 7冊
9月 10冊
10月 11冊
11月 14冊
12月 12冊
の計61冊です。


近年で最もハイペースで読んだような気がします。この半年は大して冒険もしていないので、手堅く、面白い本を読めたと思います。





2017年下半期 選出5冊


例によって初読とはいえ今年出た本とか近年の本に限らないのですが、気にしないでください。
選んだ5冊はこちらです。

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・百年法(上下巻) 山田 宗樹
――「彼女のこと、かわいそうだとは思わなかった?」
〜「なんでかわいそうなの」
「もし百年法が施行されたら、死ななきゃならないから」
「それは、あたしらも同じでしょ」「百年経ったら死ぬ。あの女だけが特別に短いわけじゃない」


文庫版にて。
不老化措置を受けた国民は、措置後百年で死ななければならない。それが「百年法」。不老時代に突入し始めた日本で、措置後初めての「百年目」を迎えようとしていた。物語の序盤は、この法律の制定前の日本国を描いている。これがもう、人間の嫌なところを煮詰めたみたいな話で、かなりキツいんだけどすごく惹き込まれた。
とにかく話が面白かった。SF的に、ケチならいくらでもつけられるとは思うのだけれど、そんなのは置いておいても非常に読み応えがある。これ、勿体ないことに数年単位で積んでたんですよ……読まないまま自宅で放置してたんですよ……信じられない。早く読めばよかった。
遊佐の行く末がものすごく気になって一気読みしてしまった。明確に「主人公」という位置付けはないものの、物語の中盤付近でそれに相当する二人の動向が目立ち始めるんだけど、そのあたりが本当に好き。私は遊佐という人物がとにかく好きなので、上巻最後の遊佐と牛島の対峙シーンには衝撃を受けた。
結局「悪人」と言えるような悪人はどこにもいなくて、そんな大袈裟な肩書きで表現できるような存在なんてどこにもいなくて、みんなが生ないし死に怯えたり、仁義を外れてしまったり、保身に走ったりと、人間味溢れる弱さを持っていて。人間がすごく魅力的な小説だった。
下巻で一番好きなのは、このセリフ。
「あれと酒を酌み交わし、あのころのことを愉快に思い出しながら、残りの日々を過ごせたら、どれほど良かったか」
これに尽きる。




・笑うな 筒井 康隆
――「じつは、タイム・マシンを発明した」


ショートショートの名手といえば星新一だが、筒井康隆も名作を多く生み出していると思う。この作品集の最初の方、ポンポンリズムよく繰り出されるショートショートが特に大好きで、著者の引き出しの多さには感嘆するばかりである。
すごいですよ、一冊で34篇読めます。なんて贅沢なんだ。中でも印象的だった作品をいくつか。
『客』…自分を「お客さんです」とだけ紹介し、家に上がり込む人物。妙な名乗りにも関わらず、マックスハイテンションで歓迎する家族。社会風刺とコメディに落差がある。
『正義』…男にとっては人と争うことこそが幸福だったのか。現実世界でもよく見るが、何かを否定することに快感を見出し、何かを攻撃するために粗探しをしている人のようだ。そんな薄暗いのが楽しい人生か?ちょっと考えてしまった。
『セクション』…地層学博士のプレゼンのセクションとして、彼の妻の浮気話が挟まっている。これが最後には一つの話として成立するのが技だなあと思う。このネタの拾い方はすごい。タイトルのセクションもいいし、博士の研究が地層なのも内容にあってて、すこぶるセンスがいい。
『駝鳥』…一番心に残った。というか、一番怖かった。相手が何も言わないのをいいことに、図に乗って好き勝手やっちゃ、相応の報復はあるよなあという感じ。
『マイ・ホーム』…全てを手に入れるのは理想だけれど、人生のいいところはコツコツ生活を豊かにしていく、過程が備わっているところだろう。絶望感がよく現れていた。




・『俺俺』 星野 智幸
――俺は俺でいすぎた。「母」の息子の俺、母の息子の俺、俺ではない俺、俺ではない俺、俺としての俺、俺たち俺俺。俺でありすぎてしっちゃかめっちゃか、もう何が何だかわからない。電源オフだ、オフ。スイッチ切らないと壊れちまう。


マックのカウンターで隣になった奴が、俺のトレーの上に携帯電話を置いた。俺は立ち上がってからトレーの携帯電話の存在に気付くが、ついそのまま持ち帰ってしまう。携帯の持ち主である見知らぬ男相手にかかってきた電話に出て、男の母親を相手に出来心で俺俺詐欺を行った。それをきっかけに、「俺」がどんどん増殖していく。という話。
下手なホラーよりずっと怖い作品だった。まず表紙が怖いね。内容にとても合っているんですけど、本作装丁のための絵ではなく、美術館にあるようなれっきとした絵画らしい。これを描いた画家さんについてもネットで軽く調べてみたけど、経歴も何もかも簡単に言うと「やばい」。それについては、小説と関係ないのに言い出すと長くなりそうだから省きます。
妙な世界観の話ではあるけど、自己やら自我やらの揺らぎを的確に突いた表現が多いのが本書ならではの特徴。というか状況設定が奇抜すぎて、本書以外ではお目にかかれないであろう文章が大量に出てくる。自分とか自己とか、あたかもたった一人で成り立っているようなものが、実は他人がいてこそ成立しているんだというところとか。あんまり目をつけたことのない考えだったけど、すごく腑に落ちた気がする。
俺以外の者は信用ならないという思考に陥ったあとで、徐々に同じなのに同じじゃないことを受け入れられなくなっていく展開には、まあそうだろうなあと思った。自分のことを完全に理解する「私」が現れたら絶対友達になりたくないもんな。




・銃 中村 文則
――そして、私は拳銃を使っているのではないのだ、と思った。私が拳銃に使われているのであって、私は、拳銃を作動させるシステムの一部にすぎなかった。私は悲しく、そして、自分が始終拳銃に影響され続けていたことを、思った。


2017年、かねてから気になっていた教団Xをようやく読んだ。ちなみに、購入時にはまだ文庫化はされていなかったので、読んだのは単行本である。めちゃくちゃ分厚い。かさばる。結果として、まんまとハマったので、現在進行形で中村作品を読み漁る日々である。多作な作家は次々読む本があって困らない。ありがたい。
今のところ読んだ中村文則作品の中では「何もかも憂鬱な夜に」か本書かで迷ったのだが、構成が好きなので「銃」。……書いておいて未だに迷う。銃は展開が好きだけど、「何もかも憂鬱な夜に」は書いてある文章と作品に流れている空気感が大好きだ。
たまたま銃を手に入れた大学生。まずはそのフォルムを愛し、銃を持ったことに万能感を抱くようになる。撃つこともできるし、無理に撃たなくてもいい。彼は選択肢を手に入れたことに浮かれる。しかし徐々にいつ撃つか、どこで撃つか、誰を撃つかを延々と考え続けるようになっていく。当初あった「無理して撃たなくてもいい」という自由は、完全に「無理してでも撃たなきゃ」という思考に乗っ取られる。いつしか銃に操られていたことに気付き、彼は涙するのである。ラストシーンのシチュエーションと彼のセリフがすごい。言葉は本人なのに、完全に銃に操られている。このラストシーンに辿り着くために読んでいたのではないかと。そんなことを思った。
併録の『火』も迫力あってオススメです。
ところでこの作品、映画化されるらしい。まだ「去年の冬、君と別れ」とか「悪と仮面のルール」はわかったが、この小説を映像化しようと思った意図がわからない。拳銃を見つめ、拳銃に見惚れ、最初から最後まで脳内で自我が騒いでるような小説である。小説だから読みどころがあるようなものである。そういうストーリー、にしてしまうと絶対つまらない。つまらなそう。え、どうする気なんだろう。でもこのラストシーンは映えるだろうなあ。あれは映像で見たいな。




コンビニ人間 村田 沙耶香
――朝になれば、また私は店員になり、世界の歯車になれる。そのことだけが、私を正常な人間にしているのだった。


話の内容については向き不向きあるだろうが、芥川賞に関していえば納得の受賞といえるのではないか。大衆文学向けな直木賞以上に「これが受賞作?」と言われることの多い芥川賞だが、これがとらなきゃ何がとるんだと思うほどには本当に納得の受賞作だと思う。ファンの欲目抜きに。
いつもどおり独自の視点から物事を見ているし、主人公は相変わらず村田作品の世界に生きてるヒトだ。でも、世界観は普通の現代かな。まあコンビニ人間という作品では、その「普通」が曲者なんだけど。
主人公は昔から上手に「普通」を装えない・振る舞えない人間だった。彼女はみんなの感覚がわからない。共感に乏しいのだ。それがたまたまコンビニでバイトをはじめると、みるみる生活がいきいきしはじめた。コンビニにはマニュアルがある。がっちり決められたルールや枠があって、そこからはみ出さないことこそが求められる。主人公にとって、それが一番自分にあった、楽な生き方だったのだ。彼女の生活は、ようやく動き始めた。周囲も最初は喜んだ。けれど気付けば36歳。コンビニバイトは18年目、就職もせず、彼氏もいない。
主人公は確かに異物に近いかもしれないが、気持ち悪いほど「普通」を押し出してくる周囲に対して不快感が募る。仲間内で集まったとき未婚で未だにバイトを続ける主人公が爪弾きにされる展開があるが、「〇〇さんも未婚だけど、あれは仕事の都合だから〜」みたいな会話が一番嫌だった。妙齢の女で、かつ未婚であることにいちいち理由が必要な環境が嫌だ。
なんと言っても白羽のキャラがいい。俺はこいつらとは違うという謎の自信。これよりマイルドかもしれないけど、なんか時々いるよこういう人。プライドが高い割に実力もやる気も無く、責任転嫁を続けてきた男の成れの果て。口先の言い訳ばかり繰り返す彼と、彼の不満たらたらにやはり共感できない主人公。会話は笑えないような内容が多いのにコミカルで面白い。白羽は基本的に正しい現代の価値観を語る。世間と同じ価値観、「普通」がどういうものかを知っている白羽は、世の中にコンプレックスを持っている。
主人公がコンプレックスも引け目も焦りもないのは、世間と同じ価値観を認識出来ていないからなんだろうなと思う。別に、それはそれで悪くないと思うんだけど、世の中はそれを排除したがるんだよね。彼女は選択をして物語は終わるけど、彼女という異物と世間との戦いは終わらない。彼女がそれを戦いだと自認しているかは別にして。
というか、世間の普通ではないから、村田沙耶香も「未だにコンビニでアルバイトしている」って肩書きが一辺倒の個性みたいに語られるんだろう。皮肉にも。
面白かった。ちなみに、現在発行されている村田沙耶香の小説は、こちらの本を読了した時点で読破ということに。村田沙耶香って本当に変わった人だから、なかなか軽く人におすすめできない気がしてたけど、これが一番万人におすすめできるし、内容も面白いんじゃないかと思う。賞もとった上に売れたから名も知れただろうし。やーーー。好きだなー。
私は「しろいろの街の、その骨の体温の」がやっぱり一番好きなので、本作をいいなと思ってくれた一人でも多くの人に、読んで欲しいと思う。




以上5冊でした。
2017年充実してたなー。行きつけのカフェができて、カフェに行くと読書してしまう。どんどんおひとり様が上手になっていく……。楽しい……人生タノシイ。


あとあまりに内に籠って読んでばかりいるので、年末から読書会に参加するようになりました。進歩!色々発見あって面白いです。見ての通りフィクション小説ばかり読んでるので、絵本とかエッセイ、哲学書、自己啓発本、ビジネス本など飛び出して、己の狭さに愕然とする。
色々読んでみたい気持ちはあるんだけど、これでもまだ読みたいフィクション作品を100冊以上メモしてて、50冊以上の積読を抱えているので、それらが先かなって。やっぱり趣味だから、義務感にかられてやると駄目だよ。って思って。
そんな感じです。




今年は年間100冊以上読みたい。

自選!2017年楽曲大賞

2017年楽曲大賞

 年末に多くのオタクがこういうテーマでブログ書いてるの見て

私もやろ!!って思ったのですが、一ヵ月過ぎてしまいました……

二月が来てしまい、焦りながらもやっぱり書きたかったので、一ヵ月前の感覚で書きたいと思います。

 

ルール

・2017年1月~12月にリリースされた曲に限る

・1アーティストにつき1曲縛り

・1ジャンルにつき1曲縛り

・独断と偏見

 

選びました。

一応、総じて最高と思った曲を楽曲賞、歌詞が特に好きな曲を作詞賞、メロディや歌割りが素晴らしいと思った曲を作曲賞、アレンジが優勝だと判断した曲を編曲賞にわけて全10曲をセレクトしました。

特に意味はありません。順位もない。ぶっちゃけ全部楽曲賞。

 

 

 

楽曲賞

WE ARE ST☆RISH!!/ST☆RISH

 

 

あんなあ!もう別に思い入れ補正と思われてもいいです。オマエがナンバーワン!それでいい。上松範康もとい七海春歌渾身の一曲。

ST☆RISH「今」の全てが詰まっている。 言うまでもなく、「今」である。あの後Shining☆Romanceも発売していますし、これからも伝説は更新されていく。世間的にはマジLOVE1000%の知名度を越えてはいないのかもしれない。だけど、うたプリを振り返ればWelcome to UTA☆PRI world!!があるように、ST☆RISHを振り返れば必ずこの曲があるに違いない。今までと、これからと、すっかり纏めあげてしまった最高の曲だと思います。確実に彼らにとってのアンセムになるはずです。

実際に聴いたのは2016年、(フルではない)アニメ内での挿入歌。QUARTET NIGHTHE★VENS共に披露した後の歌唱で。七海春歌はどちらも素晴らしい曲を作り上げていて。アニメなのでその後の展開とか、確実に予定調和があることは長年のオタク人生で理解しているつもりです。だけどあの勝負はラストが本当にわからなかった。且つ、いくら「優勝」という展開になっても、納得いかないというか「自分の中ではこっちが優勝だから……」みたいな思いが生まれることって自然であったりするわけです。ST☆RISHというグループが大好きですが、私はあのとき勝負の行方が純粋にわからなかった。

ですが、曲が始まった時。「闇に光を 荒野に花を」と歌われた時。Welcome to UTA☆PRI world!!のフレーズが使われていた時。感嘆のため息。素晴らしい。なんでもいい。勝ち負けなんていい。みんなにそれぞれのナンバーワンがあるでしょう。私のナンバーワンはこの曲だ。それがわかればいいと思った。ST☆RISH好きで良かった。この曲が生まれて、フルで聴くことが出来て、本当に生きてて良かった。

全部いいけど、「We are……and,You are ST☆RISH」に胸がぎゅってならないST☆RISHファンがどこにいる?最高です。永遠って私もわからないけど、だけど彼らは永遠です。まだまだ一緒に探していこうね。一生着いていきます。

 

 

打上花火/DAOKO×米津玄師

 

打上花火

打上花火

 

 

それはそれとして。

コラボ曲ならステップアップLOVEの爽快感、ドライヴ感に比べると若干違うなって思うんですが、こちらも思い入れによる補正は入ってます。

映画観ました。『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』。青春の刹那的な部分、にも関わらず繰り返される一日、恋心、揺れる少年少女。個人的に好きな要素が詰まっており、何もなさげな行間すら考察するのが好きなオタクにはたまらない映画でしたので、私にはヒットしました。あんまり我慢ならなかったんで、映画のノベライズも購入しましたし、岩井俊二氏の『少年たちは花火を横から見たかった』も購入して読みました。結論、どの媒体でもなずなは魅力的だった。なずなに代表されるように、少年よりも少女が早くに成熟する。なずなを追いかける典道も、最後に花火に向かって想いを叫ぶ幼なじみたちも、他の少年達より大人への通過儀礼は早く去ったのだろうけど。なずなは突飛なことを言って男たちを振り回すけど、現実も誰より見えていて大人なのだ。

そういう映画のいいとこどりしたようなのがこの曲である。いつまでもこんなことしていられない、この夏は永遠じゃない、家出なんてできっこない、だけどせめて今日一日だけは典道くんと。なずなの心の叫び。なずなのことを助けたくて、力になりたくて、好きだとかはまだはっきりわかってないし素直になれるほど大人じゃないけど、それでも彼女の手を何度でもとって一日を繰り返す典道の選択。全てが詰まっている。曲単体でももちろんいいんだけど、映画を含めると堪らない気持ちになる。

デュエットなのも一つのポイントだ。単なる企画に終わらない。男女のデュエットであることさえ意味がある。女だけでも駄目だし、男だけでも駄目だ。これは少年少女の物語だから。中盤の「パッと花火が〜」からのかけあいが、デュエットであることの良さをググっと上げている。それぞれがなずなの、典道の、感情というニュアンスを込めていると仮定して聴くと更に世界観に浸ることが出来るのである。補完して聴けることも楽曲における一つの魅力だと思います。オタクは行間を読むのが大好き。

米津玄師がセルフカバーしてるソロ版もいいんだけど、やっぱり主題歌としての楽曲の妙を体現しているのはこちらだと思います。こみこみでこの曲を推す。

 

 

Fiesta!Fiesta!/Juice=Juice

 

Fiesta! Fiesta!

Fiesta! Fiesta!

 

 

一グループとしての進化を見た。

Juice=Juiceはオリジナルメンバーのまま2017年までを生き抜いてきたグループである。インディーズ時代にメンバー脱退は経験しているものの、新規メンバー加入もなく、長らく5人グループだった。2人の新規メンバーが加わることが発表されたとき、大勢のオタクが動揺と変わることへの不安を感じたはず。変わっていくことへの自信を見せたリーダーの宮崎由加さんからのメッセージの心強さを頼りに、ドキドキしながらお披露目を待った。

7人体制となった第1弾シングルとしてリリースされたのがFiesta!Fiesta!だった。

とにかくもう、Juice=Juiceの底の知れないパフォーマンス力に痺れた。5人体制時、歌唱力は言わずもがなだったが、段原瑠々の加入で更なる厚みが生まれたと思う。梁川奈々美は彼女の堂々たるパフォーマンスと並べるとまずまず……かなと思うが、まだまだ成長の可能性を秘めていることを感じさせる。juiceはパフォーマンス全振りしてるようなグループなのでこんなだけど、そもそもアイドルグループなので、成長への予感というのは強みだと思う。完璧を目指すのは素晴らしいことだけど、完璧なだけがアイドルじゃない。

2人の新メンバーがJuice=Juiceそのものの伸びを予感させ、結果としてはいい方向に進むのではと期待してしまう新体制となったのではないだろうか。 ビジュアル面の強化も言うことがない。やなみんは愛らしい中に美しさのある顔立ちをしていて最初からアイドルさんだった。瑠々ちゃんは最初見たときにちょっと薄い気がしていたのが近頃どんどんオーラを増して綺麗になってきていて、これからが気になる子だ。というか手足が人間か?と思うくらいに長い。あのスタイルから繰り出されるダンスは驚くほど見栄えがいい。マジか。新メンバーいいじゃん。最高。

曲の話を全然していない。デビュー作と二作目と、リリースされたときは「juiceやばいな大型新人だ……」という意識でしたが、三作目以降は妙に保守的になったというか、ありがちな曲の積み重ねだなという印象でした。攻めないグループだなあと思いました。たまに攻めたと思ったら地団駄ダンスだからな。ちなみに地団駄ダンス、アリかナシかで言うと私はアリ派です。(でもjuiceでないといけない曲だったかと言われると違うとは思う)

それと比べて攻めた?って聞かれると、いまいち攻めきっていないというか、今作もメンバーの歌やダンスや魅せ方といったパフォーマンス力で支えてる部分が大いにある曲ですが。今回に限り、これはこれでいいんだと思う。7人体制、こんなグループです!バーン!!と出て充分足りる、名刺的な役割を担った曲だと思う。

良曲とは思うんですが、楽曲だけで言えばこれが全てではないですし、ファン以外の耳にずっと残る出来ではないかもしれない。でも、これからが楽しみだ!という気持ちを込めて星三つ!頑張ってください!応援しています!でも頑張りすぎないでね……。かりんちゃんが休養入った時本当に心配だった……無理はしないで……。

 

 

 

作詞賞

ハヤオ/河野穂乃花(ひめキュンフルーツ缶)

 

 

ねえ……まさか生で聴く機会を永遠に逃すことになるとは思いませんでしたが……。何を置いてもライブ行けばよかった。

収録アルバムは名だたるバンドの方々が楽曲提供していて、どれもよく提供してくれたなレベルの良曲ばかりでお腹いっぱいなんですが。まあハヤオですね。

ほのかはあまり歌のうまい方ではなかったですが、それすら活かしていると思います。彼女のソロ曲、You You 夢 Visionもそうだけど、ちょっと無理して出してるくらいの声が異常にかわいいのでよくわかってんなーーーって思う。グループ曲であんまり入れると本人もきついだろうから、ソロ曲ならではだと思います。最初と最後に笑い声が入っていて、曲としてはそこが絶妙な抜け感を出していていい感じなんですね。すごくほのかっぽい。

作詞賞にぶち込んだのは何がいいって歌詞が一番だと思ってるからです。 何度も言っていますが、二番の「あなた以外のことならばすべて忘れてしまいたい あぁそして叶うならば忘れさせてみたいわ!」ってフレーズがマジでマジで好きです。フレーズ単体で言うと2017年史上一番好き。

全部通して歌詞を見るとめちゃくちゃ意味深で、ちょっと怖いくらいなんですけど。そのへんが挫・人間っぽいよね。 「あなた」の正体とかね。「形を持たないあなた」、「彼を私が燃やしたことはとても気にしていることなのさ」……。どういうことなの。これがアイドルソングとしてギリギリ成り立っているのは河野穂乃花の力量に他ならない。本人の意識しているところではないんでしょうが。

 

 

LOST SEASON/スフィア

 

ISM(初回生産限定盤)(DVD付)

ISM(初回生産限定盤)(DVD付)

 

 

畑亜貴が好きだ。

スフィア自体はこだまさおり先生もrinoさんもめちゃくちゃよく見てくださっていて、あたたかい歌詞や曲を提供してくださっていて……なんですが、畑先生の萌えパワーは私の琴線にいつもビリビリ訴えかけてきているとしか思えない。解釈があまりに近い。

直接どこかの記事で見たわけではありせんが、感覚として畑亜貴の作詞の源は基本「萌え」だと思います。だからキャラクターソングにしてもあんなにキャラ観がそれぞれきちんと出たものが仕上がるんだと思う。個人でいえば茅原実里さんにしてもそうでしたし。田村ゆかりさんについては、ぶりぶりキュートなアイドルよりも渋くて低音でシリアスなところに重きを置く萌え方をしていたに違いないと確信しています。そして私はそれが本当に好きだった。(また書いてくれないものか)

まあそんなわけで、スフィアに関しても爽やかで明るくてっていう表の顔の他に、どこか刹那的でノスタルジックな部分を感じているんでしょうね。「本当だから困るんだ」とかこっち系の曲ちょいちょいかましてきます。

昔の恋人を思い出してる曲なんですけど、本当に好きなのはその人なんですね。今も。だけど傍には既に違う人がいて、自分に寄り添ってくれてるんです。はっきり言わない、昔へ想いを馳せていること以外歌詞にはないんですが、それはそれとして今隣にいる「優しい人」を自分なりに愛したいという気持ちがさり気なく伝わってきて切ない。良曲です。

中でも、二番サビの歌詞「笑顔でかるく抱きしめて 考えごとをしてたの?って心配そうに聞いてくる優しい人に囁く」「なんでもないよ ただ少しね時計が逆に動きだして旅してたみたいみんなたぶん……あるでしょう?」がいいです。

 

 

恋のhige&seek/ハニートラップ

 

Honey Moon Cafe

Honey Moon Cafe

 

 

伝わる人の方が少ないだろうことは把握済みです。アイドル事変の曲です。しかもアニメで使われてもいないカップリング曲の方。アプリもアニメも…………正直コケたことは認めますが、曲は最高だと主張したい。というか、本当に2017年よく聴いたんだこれ。歌詞で言うとWithのジャックイン・ドリーマーもしっとりしていて切なくて詩的な名曲ですが、大好き過ぎてこっちを取ってしまった。

アニメのために作られた曲はつんく♂プロデュースでしたが、こちらはつんく♂氏関わっていません。だけどハニートラップは二曲共にハロプロ色がどことなく強い。特にこちらのサビの雰囲気はそんな気がする。

「早く見つけて ううん見つけないでねMy heart」のところの歌い方と拍の取り方がドンピシャでアイドルソングって感じが強く、私好みです。ハニートラップってそもそもお姉さん系、セクシー系がウリの美少女党に属するグループなんだけど、歌詞がすごく「少女」から「女」への戸惑いを表している。そこがいいです。全体的な心の動きは女を感じさせるんですが、Aメロは「もういいかな?まだだめだよ」から入り、「かくれんぼはもう終わりにしよう」で締めるサビっていう。子供の遊びのフレーズが盛り込まれてて、女への孵化も感じさせる。裏腹にイントロあたりにコーラスが入るんですが、あそこはセクシー系が存分に出ている。こういう緩急がアイドルソングの醍醐味だと思います。

出来れば彼女たちの背景と照らし合わせられたら……って思うんですが、アプリもなくなり、動きが全く見えないコンテンツと化してしまい。先が見えません。この曲の「先」の景色が見たいです。よろしくお願いします。

 

 

 

作曲賞

エキセントリック/欅坂46

 

不協和音

不協和音

 

 

ピアノが特徴的なこの曲。歌詞も攻めているしMVのメッセージ性も2017年内では抜群だったと思いますが、やっぱり曲の鮮烈さかなあ。

最初に聴いた時のラップ部分はんんん?って思いが強かったですが、一度目のサビを乗り越えると「超かっこいい……」以外の感情を失う……。その後一番から再度聴きなおし、最初のラップを耳にしてももはや「超かっこいい」より他に言うべき言葉はありません。感服しました。降参です。

「ここだけの話って耳打ち」って歌詞がすべて表してるような気がする曲です。ラップ部分の違和感みたいのってここに集結してるような。内緒話、こそこそ話、どこかそんな雰囲気に包まれた曲だと思います。エキセントリック自体が。それを含めて、曲中の心がざわつく感じ、うまく表現していて、特に作曲勝ちだと思う曲です。

欅坂46ってまだ定まってない気がして、「カメレオンみたいに同じ色に染まれない」もそうですが、透明なんですよね。だからこそこういう曲にもチャレンジ出来るんだろうなって思います。……思いますが、やっぱりそもそも「アイドル」である限りファンを楽しませてあげて欲しいなって……思ってしまいます。しんどそうなメンバー見てなおずっと着いていけるのもファンですが、つらいと感じるのもファンだと思う。この辺言い始めると収拾つかなくなるし曲と関係なくなるのでこのへんでおさめます。

私自身青春時代が薔薇色〜なタイプではなかったので、こういう陰のある曲が心にズンとハマります。だけど学生時代に聴かなくて良かった。こういうのは、今聴くからこそいいような気がする。あの頃の自分は今肯定できたらいい。それでいい。

 

 

前へススメ!/Poppin' Party

 

 

めちゃくちゃ迷った。作詞で八月のifを選ぶか。だけどこれかなー。めちゃくちゃいい。最初聴いた時は何の情報もなく、アニメで使われていた場面も知らなかったけど、それでも楽曲のパワーだけで泣いた。中村航の歌詞はずるい。少女の気持ちがここまで盛り込めるのは本当にずるい。

曲に関しては、1st、2ndシングルあたりならともかく、まあまあ枚数を重ねてるバンドにしてはロジックとかあまりなくてストレートすぎるほどかなあって思います。が、やっぱりアニメ内のシチュエーションも勝ってますね。未熟だけど、楽しい!という気持ちと音楽が好き!という気持ちで突っ走るひたむきなポピパ色がよく出ている。

加えて、パート割がこの曲の魅力を底上げしている。ここが曲の強みだった。Aメロ、Bメロとメンバーがそれぞれ歌い、サビを香澄が歌う。このサビパートに胸が熱くなるのは、4人の支えを強く感じるから、というところが大きい。更に4人の歌っている歌詞も香澄を連想させ、つくづく作りがずるい。敢えて複雑な音階を避け、全員が素直な歌声で収録している。そんなのも合わせて、やっぱり作詞じゃなくて作曲に加えるべきかと思ってこのポジションに。

ライブハウスでのライブ出演権をかけてのオーディションで「一番出来ていない」と宣告されて自信喪失し、歌えなくなった香澄の元に集う。一人じゃないんだ、あなたの周りには仲間が四人いるんだって。香澄の引力のままに集い救われてきたメンバーが香澄に向けて歌うんですよ。もうね、そういうやつ大好き……。

バンドリさんは2017年めちゃくちゃリリースしましたが、本曲は歌詞も突出してると思います。4人のソロパートを受けた上で、ラスサビで「右見て前見て左見て 目と目を合わせ確かめた 私はひとりじゃないこと」って香澄に歌わせるところとか。絆に弱い。これでポピパに落ちないバンドリオタクがいるだろうか。

 

 

HAJIけてシナプスシナモンロール/にゅーろん★くりぃむそふと

 

ガールフレンド(仮) キャラクターソングシリーズ Vol.03

ガールフレンド(仮) キャラクターソングシリーズ Vol.03

 

 

あーーーーGFのアルバムって何枚売れてるんですかね????5万枚くらい売れてる?最低でも5万人くらいは聴いてる?

アプリ内で既に大好きだった曲。リリースされて本当に良かった。加えて、Tom-H@ckは作曲だけしててくれ、と思わずにいられなかった。君の手も大好きなのでジャンル縛りで言うとそっちと迷ったけど、シナモンロールインパクトには勝てなかったよ……。

こちらも高校生の軽音部がバンドしてるって設定なんだけど、キーボードがやりすぎなくらいはっちゃけてる。激しい。いいね。進化系girlみたいなハードロックに近い楽曲じゃなくて、どちらかと言えばキュート系統のこの曲っていうのがポイント高い。相変わらずにゅーろんは歌詞も意味わかんないんだけど、それを補って余りある。いや、歌詞も好き。

ボーカルである陽歌@早見沙織の声はもちろん、キーボードの桃子@小倉唯、ベースの凪子@後藤沙緒里の歌声も随所随所に入れることで光ってて、三分余りのそこまで長くない楽曲だけど贅沢な感じ。2017年の早見沙織なら覆面系ノイズだろって?うるせえ、イノハリでいうとカナリヤは大好きだったよ!

全体的に楽器隊が高校生のガールズバンドなんだけど?って確認したくなるくらいぶちかましてるんですが、もういいよ。強いから。大好きです。

どうでもいいけど、この曲は振り付けがオタク好みなやつ。GFはちょっとオタクの好みから外れた演出をしてしまいがちだけど、これはちゃんと狙い通りハマってた。「キミとの甘い空想で」でカメラが寄って、センターガールのキス待ち顔を映すの。「おう!これこれ!求めてたやつ!!」って感じだ。キス待ち顔は陽歌が最かわだった。

更に更にどうでもいいけど、この曲が収録されているガルフレのアルバムでは、ペンタトニック・ラブなんていう激エモ曲や、私の本命ガールである新垣雛菜ちゃんが歌うbrand-new magic daysが収録されておりまして、このアルバムが総合すると一番好きだったなあ。

 

 

編曲賞

pride -KING OF PRISM ver.-/速水ヒロ(前野智昭)

 

劇場版KING OF PRISM -PRIDE the HERO-Song&Soundtrack

劇場版KING OF PRISM -PRIDE the HERO-Song&Soundtrack

 

 

聴いてこのアレンジ!どう考えても2017年ナンバーワン。

編曲で言うとFREEDOMも最強だったので唸るところなんですが、やっぱり初見はprideが全部持ってったのであの感覚を優先します。さすがは天才アーチスト神浜コウジ。

余談ですが、FREEDOMの使われ方が劇的すぎて感動する。「俺が目指すのは勝者じゃない、勇者さ」という中学生ヒロ様の言葉を受けてコウジが作ったこの歌。RL時代はヒロ様に初心を思い出して欲しいという思いが込められ、目を覚ましてくれというタイミングで使われた。キンプラでは、披露した後に胸を叩いてカヅキ先輩から激励の合図。よく考えたらヒロにとっても救いであり道標になってきた曲なのかもしれないなあ。素敵です、カヅキ先輩。

余談終わり。 prideの話に戻ります。もちろんprideそのものは四年とかそのくらい前からある楽曲であり、ヒロ様の歌唱、Hiro × kojiの歌唱、更にはルヰの歌唱と、音源としては既に多く存在している。でも、確実に「prideを一番うまく表現できるのは速水ヒロ」しかいないんですよね……。

特にこの映画のアレンジは素晴らしい。メタ発言となりますが元々べるが歌うかもしれなかった曲、そこにべるのバイオリンを加えてオーケストラな編曲に仕上げるという。エモーショナルすぎる。制作側が口を揃えて完成形と言い切れるだけある。映画ラストでようやく「君だけが永遠」の「君」に速水ヒロ本人も入ってきたんじゃないかなって思って、なんか書きながら泣きそうなんですが。今までコウジやべるやファンの黄薔薇たちが速水ヒロが歌うところの「君」だったのに、ここに来て昔の自分もひっくるめ「君」になったのかなって。

ショーは言うまでもない。プリリズを全シリーズ観てからあのショーを観ることが出来て本当に良かった。べるとなるの像の間から地球に降り立つ速水ヒロの貫禄たるや。強くなったねヒロ様……。プリズムキングおめでとうございます。貴方がプリズムショーです。

 

 

 以上10曲です。

 

次点でUVERworldのDECIDEDかなあ。USGの曲入れそびれたのを書き終えてから思い出しました。まあそのくらいUSGの新曲は聴き込んでないってことでしょうね……素直にたくさん聴いた曲を残しておきましょう。新しいアルバム買わなきゃ。

2017年に一番いいなと思い続けてきた水樹奈々は絶対的幸福論だったのですが、2016年12月リリースで選出から漏れました。それ以外ピンとこなかったからなし。

 

ジャニーズもこの10選には食い込みませんでした。

敢えて言うなら、

・おーさか☆愛・EYE・哀/ジャニーズWEST(あの妙な「愛・EYE・哀・アイ・I-ight」が耐えられるのはそこの転調に至るまでの彼らの歌唱力によるところが大きいと思う。若手の中では歌が上手いメンバーが多く、おふざけが許されるジャニーズという強み。個人的にこの曲のインパクトには誰も勝てなかったよ)

・ぎゅっと/Sexy Zone(歌詞も曲もあたたかくて優しい。絶対ライブの最後の方で聴いたら胸にジンときちゃう。ただ私は風磨くんの最近の歌い方が苦手で、この曲もそれがなかったらなあ……と思ってしまう。去年は他のメンバーが歌ってる最中にじゃれあう中島松島を音楽番組で何度も目にすることが出来て幸せ。何回見ても目に優しかった)

・Funky Time/Hey!Say!JUMP(JUMPはアニバーサリーイヤーだったのでいろいろ忙しく活動していたし、シングルも多くリリースし、ベストアルバムまで出して、とやっていましたが、私は懐古厨に忙しくしておりまして、あんまりピンとくる曲を発掘できなかったんだよなあ。もうちょっと聴き込みたい曲が多すぎる。I/Oと迷ったけど、最初に聴いたときに「これは!」と思ったFunky Timeを選びます。MVのフリーダムさとそれでいて自然体に遊んでいた感じが最高にJUMP)

こんな感じですね

 

 

あらやだ、気付けばアイドルの曲ばっかり聴いてる!偏ってるどころの話じゃないぞ。

もっと多岐に渡って曲を聴きたいですね。2018年に期待です。

今年もよろしくお願いします。

恋をすると、人はどうして涙を流すのか。 ルポルタージュ 1・2/売野 機子

 

挫・人間というバンドがたいへん気になっている。

 

‪というのも、私の好きなアイドルグループの口からよくその名前が飛び出すからで、どのエピソードもなんだかすごく変、の一言に尽きるので、ずっと引っ掛かりをおぼえていた。気になる存在として。

‪名前を出しちゃうと私の好きなアイドルグループってひめキュンフルーツ缶なんですけど、今年のはじめに出たアルバム内に彼らが提供した曲が一曲収録された。それが本当に痺れるほどよくってこんな名曲を書いてくれたことに感謝の言葉しかなくって、ロックも確かに感じつつかわいい成分も多分に含まれた曲で、大好きな一曲で、「どこかふざけた印象のあったバンドなのになんだよ最高じゃん」と思った。

‪その後でアルバムに曲を提供してくれたバンドのみなさんの個々のコメントを拝見した。アルバムコンセプトが各バンドからの楽曲提供で構成するミニアルバムであったので、その他のバンドの人たちからも、曲作成にあたっての想いとか、ライブで披露するにあたっての期待とか、いろいろとコメントが寄せられていた。

 

‪ひとつだけ毛色が違ったのが挫・人間だった。というか、テンションもおかしいし、なんだかんだでメンバー全員がコメントしている。笑った。

こちらで読めます。

彼らはこの他にも、某動画内コメントで「僕らひめキュンと仲良しですからね。逆に言うと僕らはひめキュンしか仲良くない」とか「初めて会ったときにはHPとかでチェックしてくれてて……俺たちの名前に興味を持ってくださってる!って。俺たちは彼女たちから名前を呼ばれて初めて人間になりました」とか言っている。挫・人間を人間にした女性、最早神みたいなものとのこと。何を言っているんだ。

 

‪私はおかしい人が好きなので、彼らのこと一気に好きになりました。わりとTwitterも監視してます。Twitterも真面目なんだかふざけてるんだかわからない。

 

‪中でもボーカルの下川くん(ってひめキュンが呼んでるから心の中ではそう呼んでるんですけど)は、音楽もそうだけどゲームとか本とか漫画とか、結構バンバンおすすめ垂れ流す方で、ときどき自分でも気になるものが紹介されていたりする。

‪こちらの漫画もそういう感じで気になって購入しました。というか、書店で見つけたら帯まで書いていて、ちょっとびっくり。

 

 

‪・「ルポルタージュ」 売野 機子

 

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‪1巻および2巻を読んだ。1巻を探している間に2巻の発売日が過ぎていたことが原因だが、この際購入時の経緯はどうでも良い。

‪舞台は2033年、近未来の日本。恋愛する者はマイノリティとなり、“飛ばし”結婚という、面倒事や痛みを伴わない男女のパートナーシップが一般化された世界である。

‪その象徴とも言える「非・恋愛コミューン」と呼ばれるシェアハウスが突如テロリストに襲撃され大勢の犠牲者が発生する。記者の青枝聖とその後輩の絵野沢理茗は、テロの犠牲者全員の人物ルポルタージュの作成を命じられ、事件を追うことになる。

 

‪こうして動き出す物語だ。

ちなみに青枝聖が1巻、絵野沢理茗が2巻の表紙をそれぞれ飾っている。

 

‪近未来を描いた作品に惹かれるのは、おそらく「まだ起こっていない」・「このままだと起こり得る」ことが展開されているからだと思う。読み手にとって自分の琴線に触れるリアリティが存在するからこそ。その世界のどこにリアリティを見出すかは千差万別であるとはいえ、読み手は自分なりのリアルに想いを馳せながらその作品に没頭する。

‪(近未来でなくとも、今とは歩みを変えた場合の日本だとか、今はない価値観を有した社会だとか、SFよりは現実味のある世界の話であるとする)

世界観を理解して、ようやくそこで生きる人々、登場人物に目を向けることができる。その環境で生きるということがどういうことなのか、恋をすることがどういうことなのか、友情は、家族の形は。その世界になったからこそ自然と形成される人間関係がある。世界が変わっているので、人間関係にも変化が訪れているのが自然だ。私は特にここで変容を見せる、人間関係に最も興味を抱いている。

‪いくら「関係」が変わったとしても、生きているのが人間であることは変わらない。その社会に、人間が人間としてどうかかわっているのか、考えるのが面白い。

‪私はそんな近未来を、登場人物という一種のサンプルを通して垣間見る瞬間がとても好きだ。ちょっとずるをしているような、なんというか自分だけ覗かせてもらっているような気分になったりもする。

 

‪恋愛をしない世界、しない方が当たり前の世界というと、最近で言うと、アニメ化し、実写映画化も決定している「恋と嘘」にも少し通じるものがある。

‪こちらは「ゆかり法」により満16歳以上の少年少女は自由恋愛が禁止となっている、国が「国民の遺伝子情報に基づいて決めた」最良の伴侶と恋愛をして結婚しなければならない、子作りから家庭を作ることを義務付けられた未来世界の話だ。決められた運命の相手と、本当に好きになってしまった初恋の相手、高校生の主人公はそのときどちらを選ぶのか?

 

恋と嘘については、主人公がまだ16歳というところがミソかなあと思う。しかも16歳になりたてなわけで、もう成人している身として持てる精一杯の感想は「子供じゃん」である。男子なので、現実世界においては結婚すらできない。初恋だの青春だのにうつつを抜かしていて当然の時期に、結婚を前提とした出会いをするわけで、揺れ動く彼の気持ちを責めることが出来ない一因がそこにあるなと思うのだ。しょうがないじゃん、初恋の女の子が気になっちゃうのも、運命の相手だよって言われた女の子を意識しちゃうのも。

 

 

‪それはそれとして、恋愛をする大人が珍しいものとなった世界を描くこの「ルポルタージュ」。こちらはもう完全に大人の恋愛を綴った作品なのだ。

‪マッチングサイトに登録し、性格や趣味、学歴、収入等を見て互いに「ちょうどいい」と思える相手を探してそのまま結婚してしまう飛ばし結婚。

 

‪ヒロインである聖の感情は、基本的にはこちらに見えないようになっている。ところどころで感情を文字として書かれることもあるし語り手を務めることもあるが、大抵の場面で、語り手は理茗だ。理茗は目鼻がぱっちりしていてとても愛らしい容姿をしていて、聖は重たげな瞼の印象的な、きれいな大人の女性。ベテラン記者でもある聖はいつでも冷静で、そのぶんミステリアスな雰囲気を有している。

 

‪――聖先輩 それは吊り橋効果とは違うものなのですか?

 

‪聖は、事件を追う中で、ひとりの男と出会ってしまうのだ。

‪テロを起こした犯人に支援を行っていたとされるNPO法人の代表、國村葉。

‪彼はなんと言ったらいいのか、主要人物として描かれる理茗・聖と並べるとちょっとぱっとしない見た目で、良くも悪くも普通の男といった雰囲気の人物である。かっこいいわけでもないし、ださいわけでもない。

 

‪聖と葉の目が合う。二人は互いのことを認識して。

‪その瞬間に理茗の意識を支配したのは、二人のかおりのことで。

 

‪このシーンは本当にすごかった。

 

‪葉は、現在作中では聖と共にたった二人だけ恋愛の最中にいる人物である。細かいことを言うと理茗と理茗の母親のことはちょっと考えどころだが、一旦除外。

‪たった二人、恋する眼差しを持った彼らは、互いを見る瞳がとても美しい。冴えない印象さえある葉だが、その姿はかわいいし非情に魅力的な姿として映る。また、ミステリアスさを持っていた聖も、自分の想いに翻弄されるようになる。1巻ラストの彼女は、見るたびに胸が痛くなる。

‪このようなご時世に生きる人々だけあって、歳は重ねても恋愛経験は豊富ではないらしい描写が散見する。本能だけで動いて、気付いたらもう動き出していて、「なんなんだろう、これ」なんて言ったり、どうなりたい・どうしたいを考えていたり。

‪大人の恋愛だけどどこか初々しく、初々しいのに「大人」だからこの先の未来の関係まで考えていかなくてはならない。直接語られるわけではないが、なんとなく察するシーンはいくつかある。葉の同僚の女性が「やっぱ私達みたいな結婚適齢期が恋愛をしていたらバカみたいな雰囲気があるじゃないですか」と言うシーンがあるが、これはまさにそういう社会を何気なく説明されているのかなと思う。

‪この話がどう着地するのか、聖と葉はこの先どこへ向かっていくのか。続きがとても気になる。

 

‪3巻は11月発売だそうだが、とりあえず今は理茗の恋愛感情の行方が最も気になるところだ。

‪1巻でも2巻でも、彼らの恋愛と並行して人物ルポルタージュはしっかり綴られている。

‪ちゃんとパートナーを見つけて、生活を築いていく。その中に恋愛感情は不要で、「そんなものはいい歳して持っているべきじゃないぞ」と言われるような世界。

‪けれど、物語の主軸としてのルポルタージュから見えてくるのは、周囲の人々の愛情であった。そういう社会なのかもしれないけど、ちゃんと愛はある。2巻の恋愛ドラマの女王だった脚本家の話がとても好きだった。

‪買ってよかった。おすすめです。下川くんありがとう。

‪挫・人間のCDもこれを機に購入することをここに宣言します。

 

 

 

 

 

ルポルタージュ  (2) (バーズコミックス)

ルポルタージュ (2) (バーズコミックス)

 

 

 

大人は敵か。正論は敵か。 崖際のワルツ 椎名うみ作品集/椎名 うみ

変人には変人をうまく描くことが難しいと思う。狂人も然り。

例えば変人の作者が、自分のすることを当然と見なした世界観で物語を書くとしたら、その時点で世界は破綻している。 変人としてキャラ立ちした人物が出る作品には、少なくとも一人は常識を持った人物の眼差しが必要となる。いや、常識を持たなくても、誰かを客観的に判断する視点はかなり重要だ。変人とは、世間から浮いた存在としてそこにいなければならず、その世間を冷静に見つめなければこの手の作品は成立しない。

しかし、世間とは必ずしも正しいものだろうか?正論とは、本当にありがたいものだろうか? 正しさや正義は私たちに優しいだろうか。突き詰めていけば、正論こそが最も危ない武器になり得るのではないか。

椎名うみ先生の作品を読むと、そんなことを思う。

 

 

・「崖際のワルツ 椎名うみ作品集」椎名 うみ

青野くんに触りたいから死にたい」を読んだときにも思ったことだが、世間からズレた人物をさらりと物語に馴染ませ、溶け込ませて描くのがとてつもなくうまい。この作品集でその印象はより強まった。

前置きで書いたように、世間からズレた人物をこんな胸をざわつかせる方法で描き出せるということは、世間に冷静に向き合った上で、「変な人」に理解があるからかなあと思う。

 

以下、感想です。ストーリーにはそこまで踏み込みませんが、内容にはバンバン触れてますので注意。

 

 

◎ボインちゃん

「あんた 何で今日おっぱいないの?」

この台詞以降の子供の描き方はどこか楳図かずおを彷彿とさせる。気がする。さらしを見つけられたシーンのまおの表情の移り変わりも。

不思議な話だなと思う。構図はよくわかる。周りの同級生より早く胸が膨らみ始めた小学生の女の子の話だ。

タイトルは「ボインちゃん」だが、小学生の話なので本来気にするほど胸が大きいわけではない。しかし、小学生の同級生の中では目立ってしまうほどには大きいおっぱい。ただ、それが微妙な時期の僅かな成長だからこそ気になってしまうという。

おっぱい(とさらし)を追いかける女の子たちも実に小学生らしい無神経さなのだ。中学生じゃ、おっぱいで悩むことは珍しくないし、その悩みにもう少し真摯に対応すると思う。嫌と言う友達を追いかけてまで自分の好奇心を優先しない、はず。

本編とは少しずれるが、主人公のまおはその次の話にも中学生になって登場する。中学生になったまおだが、胸の成長は他の同級生と比べても特出しているしているわけではない。彼女の悩みは小学生ならではだったと暗に証明されているようで、合わせて完成されているような印象を受けた。

 

◎セーラー服を燃やして

ボインちゃんと繋がっている。小学生のとき「空気読めない藤」と呼ばれていた内藤が主人公。

これぞ変人より常識人の狂気が上回った話という雰囲気である。帯の「先生が超怖い」という言葉通りの内容。 何気ない会話から登校拒否をはじめた内藤の担任の丸山先生。目元に黒子があり、優しげで綺麗な先生だ。この人が正しいことを言いながら常軌を逸した行動をとるというある意味矛盾した大人なのだが、絵面のインパクト以上に些細な一言が妙に居心地悪い。

まお曰く、自分と内藤の所属する仲良しグループは自分たちを数えて4人だ。そうでなくても内藤やまおが他のクラスメイトたちと上手くいっていないとか、そういう描写は一つもない。

 

けれど先生のまおに対する台詞

「音楽室は 一人で行くの?」

「先生はいつもあなたの味方だからね」

「内藤さんのたった一人の友達のあなたがそれじゃ内藤さんが救われないわ」

 

先生が象徴的だが、内藤の母親も含めてこの話の中の大人は子供の話をきちんと聞き入れない。「今日こそ本当に話し合いましょう」という言葉が出てくるが、そこから始まる会議はとても話し合いとは呼べないものだった。大人たちは自分たちに納得のいく都合のいい答えだけを欲していて、内藤の本当の気持ちなどはどうでもいいことだというのが言葉の端々から伝わってくる。登校拒否の原因がいじめならばわかる、という具合に。

この大人たちの思考は、直接的で強硬手段をとった先生の行動よりずっと怖かった。

ラストまで読み応え抜群だ。 登校拒否の理由について「特に理由ない」と答えた内藤に「そんなことだろうと思った」「本当にお前は自由だな」と彼女のことを等身大で受け入れた同級生たちの様子は大人たちの言動との対比になっている。

それになんと言っても内藤が最後に見せる表情だ。こんなに大人だ子供だで比較した感想のあとに付けるのは抵抗があるが、内藤が見せた顔は彼女が「大人になった」ということを悟るのに十分なものだと思う。何かと折り合いをつけて生きていかなくてはならないんだなあ。

 

◎崖際のワルツ

一転、演劇の話だ。かわいい容姿だが、演劇をする上では誰もが一目で絶望してしまうような致命的な欠点を備えた華と、演劇の魅力に取り憑かれて理性と計算で劇も演者も操ろうとしてしまう律。

華は人の気持ちがわからない、何がいけないのかわからないから、本気の演技で笑われてもどうすることもできない。律は無自覚で相手の演技を縛ってしまう、人が傷付くことも躊躇わず言ってしまう、空気の読めないところがある人物だ。

入って即演劇部の同期内で爪弾きにされた2人が、原作からほとんどアレンジを入れていない白雪姫を寸劇で演じるところまでの話だが、この演劇シーンが面白い。華と律という2人の主人公たちの魅力に溢れている。ここはあまり触れない方がいい部分だと思うので省くが、なんと言っても華の顔がいい。美しい。

美しいといえば、この表情もシンプルでありつつすごく綺麗で良い。 ただ表紙を一目見ただけと、裏表紙含めて見るときとだったら全然印象が違う。

表紙の印象のみの場合。崖際ぎりぎりで、危うげな体勢で、満面の笑みを浮かべる華。体勢だけではなく、その笑みも心配になるほど危うげなのだが、彼女は幸福そうだ。狂気すら感じる。

が、彼女の手は誰かによって支えられている。誰かが差し伸べた左手が繋がれている。それが律なのだ。彼女たちの関係と、この話の肝を的確に描いた素晴らしい表紙だと思う。

 

見開きはこちら

www.pixiv.net

で見ることができる。椎名先生ありがとうございます。

 

 

短編集がなにせ大好きなので、次も期待しています。